第一次世界大戦のドラマが、今の中東をかたちづくった
「たった一人の男が歴史を変える」といいますが、それが四人になったらどうなるでしょう。第一次世界大戦中から戦後にかけて、列強の帝国が中東を今日私たちが知る国々へと分割し、この地域にはくすぶり続ける対立が定着しました。そんな激動の時代に、T・E・ロレンス、クルト・プリューファー、アーロン・アーロンソン、ウィリアム・イェール――戦争の異なる側に立ち、それぞれの思惑と共感を抱えた4人の男たちの行動が、この地域と世界の歴史を形づくったのです。
この要約は、その4人の物語と、彼らが第一次世界大戦下の中東で繰り広げた工作の数々を追います。スパイ、策略、悪意が錯綜する、まるでジョン・ル・カレの小説のような実話であり、同時に、中東がいかにして世界で最も政治的に不安定な地域へと変貌したかの物語でもあります。この要約では、次のようなことがわかります。
- プリューファーのオスマン帝国内での人脈が、いかにトルコの忠誠を変えたか
- ロレンスによるアカバ攻略が、なぜほろ苦い勝利に終わったのか
- 〈サイクス・ピコ協定〉の影響が、なぜ今も色濃く残っているのか
映画『アラビアのロレンス』で有名になったT・E・ロレンスについてはご存知かもしれません。しかし、第一次世界大戦中に中東でこれほど決定的な役割を果たした男の人間形成期については、あまり知られていないでしょう。
深い歴史への憧れがロレンスを中東へ導いた
トマス・エドワード・ロレンスは1888年生まれ。イギリスはオックスフォードの中流家庭に育ち、十代の頃からヨーロッパ史やエジプト史に早熟な関心を示し、自由時間のほとんどをオックスフォード大学のアシュモリアン博物館で過ごしました。
1909年、卒業論文のため、ロレンスはとてつもなく野心的な計画を実行します。シリア中を徒歩で踏破し、十字軍時代の城をすべて調査して、キリスト教徒がイスラム教徒から建築技術を学んだのか、あるいはその逆なのかを明らかにしようとしたのです。旅の間、各地で厚いもてなしを受け、ロレンスは急速に中東の虜になりました。彼の論文はオックスフォードの関係者を感嘆させ、お気に入りのアシュモリアン博物館が手がける発掘現場の手伝いとして、中東に留まるよう招かれます。1911年までには、トルコとシリアの国境に位置する古代都市カルケミシュで働くようになっていました。
彼は中東の文化に深く通じるようになり、発掘現場の責任者のひとりとして天性のリーダーシップを発揮しました。家族に宛てた手紙には、カルケミシュですっかりわが家のように感じていること、自分たちの歴史への驚くべき理解と、灼熱の砂漠の下で長時間働く体力によって、地元の人々の尊敬を獲得していることが綴られています。その後3年間、ロレンスはカルケミシュで働き続けました。その間にヨーロッパと中東は、第一次世界大戦の瀬戸際へと突き進んでいったのです。
第一次世界大戦前の中東では、異なる経歴を持つ3人の男たちもまた動いていた
ひとりはクルト・プリューファー。33歳のドイツ人スパイでした。若くして外国語を愛した彼は、カイロのドイツ大使館で通訳となりますが、それ以上の大きな野心を抱いていました。1913年、エジプトで現地の政情を揺さぶりたがっている有力者たちと知り合います。エジプトは1880年代からイギリスの支配下にあり、プリューファーは他のドイツ人スパイとともに、エジプトのイスラム教徒を煽り立て、イギリスのキリスト教徒に対して蜂起させようと画策します。
しかし1913年11月、イギリス政府に察知され、プリューファーは大使館の職を解かれてしまいます。とはいえ、中東を離れる気はさらさらありませんでした。
当時のもうひとりの重要人物が、スエズ運河をはさんだ向かい側、当時パレスチナと呼ばれていた地で働くアーロン・アーロンソンです。ユダヤ人の農学者であるアーロンソンは、パレスチナをかつての豊穣な土地に戻すための大規模な研究施設を建設し、国際的な名声を得ていました。しかし彼は熱烈なシオニストでもあり、世界中のユダヤ人が帰還して我が家と呼べる自立的な土地を築くことに、活動の多くを捧げていました。種を蒔いていないときは、欧米の政府にシオニズムへの支援を訴え続けていたのです。
そこでもう一人の注目すべき人物、ウィリアム・イェールが登場します。イェール家はかつてアメリカでも最富裕の家系のひとつで、コネチカット州のイェール大学の名は18世紀にさかのぼります。しかし1913年までにその財産はほとんど尽き、ウィリアムは職を探さねばならなくなりました。彼が見つけたのは、世界最大の石油会社のひとつ、スタンダード・オイルでした。1913年に入社したイェールは、中東で新たな石油資源を探す任務に加わります。このとき、彼はまだ自分の人生がどれほど劇的に変わるかを知る由もありませんでした。
「歴史はしばしば、小さな瞬間の物語である――偶然の出会い、行きずりの決断、単なるめぐり合わせ……」
1913年、ロレンス、プリューファー、アーロンソン、イェールの4人は、それぞれに同じことを見てとっていました。オスマン帝国の衰退です。かつては強大だったオスマン帝国は、第一次世界大戦の始まる頃には、まさにほころび始めていました。長い歴史を誇り、1600年代にはアルジェリアや北アフリカの大部分から中東を経てカスピ海に至り、北はブダペストにまで及んでいました。しかし、クリミア戦争(オスマン、フランス、イギリスがロシア帝国と戦った戦争)や、1800年代を通じた幾度もの露土戦争を経て、帝国は領土を失い続けていました。
1913年までにエジプトはイギリスの支配下に落ち、ブルガリア、セルビア、ルーマニアといった北方の領土は独立を達成。コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)のトルコ君主政がまだ支配していたシリア、トルコ、パレスチナといった地域も、不安定さを増していました。その一因は、これらの土地がイスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒の雑多な住民で構成されていたこと。さらに摩擦を強めたのが〈青年トルコ人〉という政治党派の台頭で、1913年までに彼らは帝国を刷新して新政府を樹立していましたが、その統制は危ういものでした。この新政府を率いたのが、タラート・パシャ(内相)、エンヴェル・パシャ(軍事相)、ジェマル・パシャ(海相)の〈三人のパシャ〉と呼ばれる高官たちです。こうしてオスマン帝国は、弱体化したまま第一次世界大戦へと突入します。
すべては1914年6月29日月曜日、オーストリア=ハンガリー帝位継承者フランツ・フェルディナント大公がユーゴスラビアで暗殺されたことに始まります。戦争でオスマン帝国がどちらにつくか、当初ははっきりしませんでした。しかしクルト・プリューファーはなおも地域にとどまり、高まる不安定につけ込み、トルコ人をイギリスとエジプトに敵対するよう説得し続け、最終的にはジェマル・パシャのドイツ側連絡将校となりました。
オスマン帝国が陣営を選ぶと、戦争の惨禍は急激に拡大した
戦端が開かれると、イギリス、フランス、ロシアを中心とする「連合国」と、ドイツ、オーストリア=ハンガリーを中心とする「中央同盟国」の間で一気に線が引かれました。そして1914年11月2日、オスマン帝国はついに中央同盟国側につきます。アーロンソンは即座にその影響を痛感しました。軍が目につくものすべてを戦争目的で略奪するのを目の当たりにしたのです。衣服、食料、車両、家々からは配管設備までが戦争に転用するために接収されました。
ユダヤ教徒やキリスト教徒が武器を取り上げられ、トルコの強制収容所へ送られるのも見ました。多くのユダヤ人が脱出し始めますが、アーロンソンはあくまでパレスチナにとどまる覚悟でした。一方、ロレンスはこの地域と文化に関する知識を買われて、カイロのイギリス軍情報部にすぐさま配属されます。当初は待機状態が続きましたが、クルト・プリューファーがスエズ運河攻撃という失態に終わる攻勢を指揮した後、ついにイギリス側も攻勢に打って出る決意を固めます。作戦計画が練られるなか、ロレンスはイギリス軍に対し、アレクサンドレッタ湾を攻撃するよう進言しました。この地域には深い港があり、船舶や兵士の接近が容易で、地形も隠蔽に優れ、何より地元のアラブ人やアルメニア人がトルコとの戦いを支援してくれる可能性が高いと知っていたからです。
しかし、ロレンスの助言に反して、イギリスとフランスは現在「ガリポリ作戦」として知られる決断を下します。この戦いは、軍隊がいかに近代戦と機関銃への備えを欠いていたかをまざまざと示すものとなりました。1915年4月、英仏連合軍がトルコのガリポリ半島に上陸すると、虐殺が始まります。舟艇から降りるのに苦戦する兵士たちが、いともたやすく銃撃されました。初日だけで4千人が倒れたといいます。海は血で染まり、赤く染まったガリポリの岸は何百マイルも遠くから見えたと人々は語り継ぎました。
ロレンスもイェールも、周囲の無能と欺瞞に顔をしかめた
戦争が始まると、ウィリアム・イェールは難しい立場に立たされました。スタンダード・オイルにとって有望な採掘エリアをいくつか見つけた後、今度はトルコ政府から詐術めいたやり方で土地の権利を確保するよう命じられたのです。1914年の大半を中東の有望エリア探しに歩き回って過ごしましたが、戦争が勃発したいま、スタンダード・オイルの試掘計画が当面停止されたのは明らかでした。
そこで雇い主は巧妙な策を編み出します。イェールはジェマル・パシャを訪ね、パレスチナの50万エーカーの試掘権を確保しつつ、戦争が終わるまで実際には掘削しないという事実を、ただ黙っておけばよかったのです。非情なビジネスマンではなかったイェールですが、雇い主には忠誠を尽くしました。結局、彼は勇気を奮い起こせたのは、25万エーカーを申し出るのが精一杯でした。ジェマルは、石油がすぐに利用可能になって戦争に役立つと思い込んでこれに同意します。イェールはこの取引に後ろめたさを覚えながらも、1916年の夏にはすでにアメリカへの帰国途上にありました。
帰路のなかで彼は、自分のこの地域での旅と取引のすべてが、連合国側のために活かせるのではないかと気づき始めます。同じころ、ロレンスは上官たちの無能ぶりに苛立ちを募らせていました。ガリポリ作戦の非効率性を嫌悪し、政治がいかに深くイギリス政府の軍事戦術に影響を及ぼしているかを悟ったのです。たとえば、ガリポリ上陸がアレクサンドレッタではなく選ばれたのは、主にフランス政府が戦後のシリアを自国の政治的目的のために確保したがっていたからだと知っていました。情報将校の仕事はロレンスの精神をすり減らし、彼はカイロの執務室を飛び出して、真に役立つことをしたいと強く願うようになりました。
欺瞞に根ざした交渉から、アラブの反乱が始まる
ロレンスが机仕事を抜け出すきっかけは、オスマン軍のアラブ人中尉がイギリスに投降したことでした。尋問を受けるなかで、特にメッカを中心に、トルコ人と戦う用意のあるアラブ人が多数いることを彼は明らかにします。ただし、アラブ側がイギリスとの同盟を約束するには、一定の条件を満たすことが求められました。かくして交渉が始まります。イギリスはアラブの指導者であるフサイン国王とその息子であるファイサル王子との連絡を開き、1915年から1916年にかけて話し合いが続けられました。
フサイン国王は、戦後にアラブ領の独立を認めるという保証を求めました。イギリスはこれに同意しながらも、交渉の詳細をフランスには秘密にしていました。フランスがシリアへの領有権主張を理由に反対するとわかっていたからです。ロレンスはイギリスの連絡将校として現場に派遣され、ファイサル王子とそのアラブ兵の軍と行動を共にすることになりました。そしてついに1916年6月5日、フサイン国王がメッカのトルコ軍要塞に向けて銃を放ち、アラブ反乱が始まります。
一方、ヨーロッパでは連合国側が独自の交渉を進めていました。1916年初頭に起草された〈サイクス・ピコ協定〉は、連合国側が勝利した場合、フランスがシリアを、イギリスがイラクを支配し、パレスチナはフランス、イギリス、ロシアの共同管理下に置くという内容でした。情報将校として働いていたロレンスはこの協定を知っており、それは戦争中ずっと彼につきまとうことになります。
しかし1916年10月には、ロレンスはファイサル王子の顧問として落ち着き、二人はすぐに互いを気に入ります。ロレンスは、ファイサルがこの地域のさまざまなアラブ部族を結束させる稀有な能力に注目し、ファイサルはおそらくロレンスの知性と誠実さを評価したのでしょう。実際、ロレンスは誠実で、ファイサルにサイクス・ピコ協定の存在すら伝え、英仏がアラブを裏切ろうとする企てを挫こうと、絶えず努力し続けました。同じころ、アーロン・アーロンソンは、周囲で進行する事態への懸念をますます強めていました。シリアで彼は、オスマン帝国によるアルメニア人虐殺を目の当たりにしていたのです。
中東のユダヤ人社会もまた、戦争に大きな影響を与えた
そして彼は、いずれ同じことがユダヤ人にも起こるのは時間の問題だと感じていました。そこで連合国軍を助けようと、思い切った手段に出ます。トルコ軍の配置や規模、物資集積所、無防備な海岸線の場所を記録し始めたのです。あとはこの情報を何とかしてイギリスの手に渡せれば! 1916年の夏、アーロンソンはオスマン帝国をこっそり抜け出し、中立国デンマークへと渡ります。
そこで彼はイギリス当局に拘束され、戦時スパイになりたいという望みを、かなりの疑いの目をもって迎えられます。アーロンソンはスコットランドヤードに拘留され、イギリスの軍事情報工作員として自分が真剣であると訴え続けました。ついに1917年3月、イギリス側もアーロンソンが誠実であり、その情報が貴重であると確信します。アーロンソンはすぐに、連合国側のスパイとして活動する24人のユダヤ人工作員から成る組織を結成しました。この作戦の指揮を執ったのは、妹のサラでした。
スパイ網はしばらく活動を続け、トルコ軍に関する貴重な情報を流し続けましたが、1917年9月17日、工作員のひとりが捕まったことで、すべてが水泡に帰します。そして1917年10月2日、トルコ軍はパレスチナのグループを急襲し、拷問にかけました。サラはなんとか逃れて自殺を図りますが、銃弾は脳を外れ、彼女が息を引き取るまでさらに4日かかりました。スパイ網が崩壊しつつある一方で、アーロンソンはシオニズム運動の政治的進展に奔走していました。1917年11月、妹の死を知らぬまま、彼はイギリス政府が〈バルフォア宣言〉を発表したことを祝います。それは、パレスチナにユダヤ人の民族的郷土を建設する支持を確認するものでした。
ロレンスとプリューファー、戦争の渦中で道が分かれる
1917年4月までに、ロレンスはアラブ反乱の世界にどっぷり浸かっていました。ファイサル王子の陣営で浮いてしまわないよう、イギリス軍の制服を脱ぎ捨て、頭から足の先までアラブの衣装に身を包みます。戦争が2年目に入り、ロレンスはアラブ側が決定的な行動をとる必要があると悟ります。サイクス・ピコ協定をよく知っていたため、アラブが独立した土地を主張するチャンスを得るには、自分たちの手で奪うしかないと理解していたのです。
そこでロレンスは、紅海の北端に位置し、シリアの中心部への進出を強化する格好の拠点となるアカバのトルコ軍要塞を攻略する大胆な作戦を練り始めます。しかも、フランスが独自のアカバ攻撃を企てているのを知っていたロレンスには、アラブが先んじる必要がありました。しかし伝統的な海からの攻撃ではなく、少数のアラブ兵を集めてワディ・シルハーン砂漠を内陸から踏破し、要塞を背後から攻略する計画を選びます。
一方、ロレンスが行動の準備を進めるあいだ、プリューファーは蚊帳の外に置かれていました。彼はコンスタンティノープルの机に張りつき、地図を眺めて新たな戦略を練るばかり。現場の情報源から切り離されたことが、戦争の現実を見えなくさせていました。1917年に入り、アラブ反乱が進展し、パレスチナでユダヤ人スパイ網が活動していても、プリューファーは問題などないと言い張りました。報告書のなかで、彼はパレスチナのユダヤ人をいまだに「従順でおとなしい」と評し、アラブ人は「臆病でトルコに立ち向かう度胸などない」とみなしていました。これ以上ないほど見当違いでした。
ロレンスがアカバを急襲し、戦局が変わった
アカバへの道中、4日間にわたるほとんど耐えがたい砂漠の行軍の末、ロレンスは自分の努力を疑い始め、絶望感に苛まれました。周囲ではアラブ兵が次々と死んでいきます。なかには、暖を取ろうと夜に毛布へ潜り込んできた毒蛇に噛まれて命を落とす者もいました。サイクス・ピコ協定の苦い知識を抱え、たとえアカバを攻略しても、結局は戦争の終わりにイギリスによってアラブが裏切られる可能性があまりに高いと知っていたのです。
しかし、ワディ・シルハーンの砂漠を孤独に進んだ末に、別のアラブ部族長エミール・ヌーリ・シャアランと出会い、彼のトルコ打倒への決意に打たれ、その魂に励まされてロレンスは前進を続けます。できるかぎり多くの土地を奪い、誰も無駄死にさせないと誓って。ロレンスとその部隊はアカバへ向かい続け、アバ・エル・リッサンの町に近づいたとき、増援として呼び寄せられた550人のトルコ兵に追いついてしまったことに気づきます。選択肢は、アカバまで彼らを振り切って先回りするか、戦うかしかありません。
ロレンスにとって最初の大きな戦闘は、迅速な勝利でした。アラブ勢は巧みにトルコ軍を包囲し、味方の損害はわずか2名で、トルコ軍300名を殺害し、160名を捕虜にしました。アバ・エル・リッサンから夜陰に乗じてアカバに到着すると、ロレンスの戦略が正しかったことがわかります。目にしたのは、無人となった防塞と塹壕の跡だけ。到着はほとんど抵抗に遭わず、2日間の対峙ののち、ほとんど双方一発も発砲しないまま、1917年7月6日にトルコ軍司令官は降伏しました。アカバは彼らの手に落ちたのです。イギリス軍はロレンスを少佐に昇進させ、兵士に与えられる最高の名誉であるヴィクトリア十字章を授与しました。これでイギリス軍はアカバに物資と増援を蓄え、将来の攻勢に備えた新たな作戦基地を得ることができたのです。
戦争が続くにつれ、ロレンスの経験は更に憂鬱なものに
しかしロレンスは勲章やメダルにほとんど関心がありませんでした。彼にとって成功の唯一の効用は、上官たちが自分の軍略を以前より真剣に聞き入れるようになったことでした。その新たな敬意を利用して、ロレンスはさらに野心的な計画を提案します。英帝国軍とアラブ軍による同時攻勢で、要衝のダマスカスとエルサレムを奪取しようというのです。いまやロレンス少佐を高く評価していた上官たちは、その大胆な戦略の準備を進めることに同意しました。
ところが、ロレンスと彼の兵士たちは次第にうずうずし始めます。アカバに物資こそ蓄えられたものの、それ以上北方への動きが何カ月もなかったのです。そしてこの焦燥が、ロレンスの軍勢に更なる血を流させることになります。1917年9月19日、重要なトルコの鉄道路線を無力化しようと、ロレンスは百名の兵を率いて橋梁の爆破と列車破壊の任務に赴きました。結果は凄惨な光景でした。爆発ののち、ロレンスの軍勢が一斉射撃を浴びせ、逃げ出そうとする多数のトルコ兵を殺傷し、負傷した多数の女性を含む民間人が取り残されました。ロレンスは明らかに周囲の暴力から心理的に切り離され始めており、それはさらに悪化していきます。
シリアの町デラーアで主要な鉄道施設を調査しようとした際、ロレンスは捕らえられ、地方総督の捕虜となります。ロレンス自身のデラーアでの出来事の説明によれば、彼は総督に強姦されるのをなんとか防いだものの、殴打と拷問を受け、のちに病院から脱走したとされています。著者は、ロレンスが実際に強姦され拷問も受けたと示唆する十分な証拠があると見ています。ロレンスを知る者たちが彼のデラーアからの帰還後に気づいたのは、後年彼が語った殴打の痕ではなく、態度の変化でした。彼はより冷たく、それまで以上に周囲の戦争の惨禍から無関心になっていたのです。
アーロンソンとイェールが知った、アメリカの中東への限定的な関心
1917年4月、アメリカはドイツに宣戦布告して公式に第一次世界大戦に参戦します。中東に対する公式な立場はないながらも、アメリカはこの地域の出来事に依然として関心を持っていました。そのため、ウィリアム・イェールがアメリカに戻ると、〈米国秘密情報局〉が彼の情報に強い興味を示したのです。当時、この局は国務次官補リーランド・ハリソンが運営する小規模な組織でした。
イェールのこの地域での経験を踏まえ、彼らは彼をカイロへ派遣することを決定し、彼は中東における唯一のアメリカ情報将校となります。新しい肩書にもかかわらず、イェールは軍事情報の専門家からは程遠い存在でした。そこで1917年10月にカイロに到着すると、状況を把握するためにいくつかのイギリスの文書へのアクセスを認められます。書類を読んだイェールは、中東で起きていることを知悉していると思える人物がただ一人いることに気づきました。T・E・ロレンスです。
しかし、アメリカの中東問題への関心を高めさせようと奔走していたもう一人の男がいました。アーロン・アーロンソンです。彼は1917年後半にアメリカへ渡り、パレスチナでのシオニズム運動へのアメリカの支持を取りつけ、できればトルコへの宣戦布告まで引き出そうとしました。ニューヨークでアーロンソンは、ついに自分のスパイ網が崩壊し、妹と多くの友人が死んだという報せを受け取ります。さらに悪いことに、彼の渡米は失敗に終わりました。最高裁判事ルイス・ブランダイスのような有力者に、イギリスのパレスチナ政策に干渉するよう説得することはできなかったのです。当時、ウッドロウ・ウィルソン大統領は公に反帝国主義の方針を表明しており、ブランダイスらほかの政治家も、おそらくこの地域の政治的地雷原を予見して、パレスチナに対するイギリスの関心を共有しませんでした。
1918年に入っても、戦争の行方はどちらにも不透明だった
1918年の始めまでに、私たちの主人公たちは戦争、とりわけ中東で何が起こるかについて異なる見解を持っていました。クルト・プリューファーは、ドイツにとって状況は上向いていると信じていました。1917年のロシア革命でロシアが戦争から完全に離脱し、ドイツは東ヨーロッパで力を強めていたのです。1918年4月には、プリューファーはエジプトの元君主アッバース・ヒルミー2世の忠誠を勝ち取ろうと画策していました。プリューファーは彼が戦後に権力の座に復帰するのを望んでいたのです。しかし、この努力はまったく見当違いであることが、数カ月のうちにドイツの運命が急速にしぼむなかで明らかになります。
一方、ロレンスこそ中東の専門家だというイェールの直感は正しかったことが証明されます。1918年3月、ついにロレンスと面会し、二人は語り合いました。ロレンスがイェールに伝えたことは多岐にわたりました。アラブ側はイギリスもフランスも信用していないこと、彼とその部下たちは、実力で奪った土地ならアラブが領有権を主張できるという前提で動いていること。そしてロレンスは、シオニズム運動にはあまり希望を感じていないとも付け加えました。パレスチナにおけるユダヤ国家は決して平和にはならず、力によってつくり、維持せざるを得ないだろうと感じていたのです。この会話のすぐ後、ロレンスは自分たちの努力が無駄ではなかったと思わせる知らせを受け取ります。
サイクス・ピコ協定に激しく反対し続けたロレンスは、ついに列強に公式の回答を迫りました。アラブは独立を達成できるのかどうか。そして1918年6月、待ち望んでいた答えが届きます。イギリスとフランスは、アラブが自ら解放した土地の独立を承認する、というのです。ロレンスは勇躍してアラブ軍をダマスカスへ導く構えを固め、部下たちに勝利に備えるよう伝えました。
15か月に及ぶ戦争が、ダマスカスでクライマックスを迎える
1918年9月、ヨーロッパと中東の戦局は突然終幕に向かい始めました。アメリカ軍がフランスに到着してドイツ軍を押し戻し、9月19日にはイギリス帝国軍の攻勢が始まって、トルコ軍をついに退却へと追い込みました。この時点で、T・E・ロレンスは最後の出撃へと赴こうとしていましたが、それは陰鬱な幕開けとなりました。ロレンスは軍を進め、タファの町に入るや、凄惨な光景を目にします。至る所に屍が転がっており、その中には強姦され、切断された女性や子どもの亡骸もありました。激怒したロレンスは部下に「トルコ人の死体を一番多く持ち帰った者を最も誉めてやる」と言い放ったと伝えられています。続く数日間、アラブ兵は推定4千人に上るドイツ兵とトルコ兵を殺害し、血の跡を残してダマスカスへとなだれ込みました。ダマスカスに到着すると、ロレンスとアラブの反乱軍は歓喜で迎えられますが、もっと差し迫った問題がありました。ロレンスは急いで市内にアラブ政府を樹立し、都市の独立を確保しようとします。
しかしそれは〈トルコ軍病院〉への対処も意味していました。見捨てられて死を待つばかりの、手当てもされない800人のトルコ軍傷病兵が収容されたテントです。その悪夢のような光景は、目撃したすべての人々の記憶に刻まれ続けることになります。状況はアラブにとってさらに悪化します。ロレンスが恐れていたように、フランスとイギリスは、ほんの数カ月前の約束にもかかわらず、依然としてサイクス・ピコ協定の条項を実行に移そうとしていたのです。1918年10月3日、ダマスカスのヴィクトリア・ホテルで会合が開かれ、二人のイギリス軍将官がロレンスとファイサルに、国境が引き直されることを通告します。
レバノンとパレスチナは分離された土地となり、シリアは内陸国になる。そしてファイサル王子は、フランスの指導下でシリアの統治者として振る舞うことになる――。その翌日の午後、呆然自失のロレンスは、人生の過去2年を費やして到達したこの街を後にし、二度と戻ることはありませんでした。
イェールとロレンスの尽力も、パリ講和会議の過ちを防げなかった
ダマスカス陥落からほどなく、1918年10月31日、中東での戦闘は終結します。そして11月11日、ドイツが停戦協定に署名し、戦争は終わりました。しかし、すべてが片づいたわけではありません。中東に対する変更案は、1919年1月のパリ講和会議まで正式決定されないため、アラブ独立にはまだわずかな可能性が残されていました。
そこでロレンスとイェールは、できる限りこの大義のために奔走します。ロレンスは講和会議までの数カ月を、ファイサル・フサインがフランスの干渉なしに自国民を率いられるよう嘆願して過ごしましたが、やがて会議への参加を禁じられてしまいます。ウィリアム・イェールもまた、戦争の血塗られた最終局面を目の当たりにしていました。彼もダマスカスで、トルコ軍病院の恐怖と、英仏の反故にされた約束を目の当たりにしたのです。イェールは米国代表団に対し、この地域の持続可能な平和と独立のための提案である「イェール・プラン」を売り込もうとしますが、まったく耳を貸してもらえませんでした。イェールには、アメリカがすでに孤立主義的な姿勢へと逆戻りしつつあるのが見えていました。
その代わり、パリでは中東が分割されました。イギリスはイラクとパレスチナを、フランスはシリアの支配権を手にしたのです。ウィリアム・イェールは後に、自らの回想録の最後を、パリ講和会議を「20世紀の悲劇のプロローグ」と呼んで締めくくりました。そして実際、パリでの決定の結末は悲惨でした。1946年にフランスはシリアを見捨て、内戦の絶えない国が残されました。1952年にはイギリスがまずエジプトから追放され、次いで1958年にはイラクからも追われます。かつて帝国の支配下に置かれたこれらの土地は、その後何年にもわたってイギリスに対する深い恨みを抱き続けることになります。
ロレンスは裏切りと戦争の恐怖に折り合いをつけようと、残りの人生を費やした
ロレンスはパリ講和会議の結果に嫌悪感を抱きました。母親によれば、午前中ずっと同じ姿勢で座り込み、虚空を見つめていることさえあったといいます。実際、ロレンスはその後の人生の大半を、過去から距離を置くことに費やしました。民間生活に戻ると、名前をジョン・ヒューム・ロスに変え、さらに後にはトマス・エドワード・ショウと名乗ります。
そして王立空軍に入隊し、責任ある地位には二度と就きたくないとばかりに、いくつもの下級職を務めました。1922年、ロレンスは『七つの柱』と題した自伝を、ごく親しい友人のために手刷りで8部だけ製本します。やがてこの本の噂が広がり、さらに200部を増刷。最終的にはあまりに人気を博したため、一般市場向けの出版を許可します。しかし版を重ねるごとに、彼は大幅な編集を施し、自らが耐えた暴力や苦悩に関する詳細を削除したり、改変したりしました。彼を知る人々は、自殺をほのめかすような抑鬱状態や、戦争のある側面については決して口を開こうとしない態度を、当時「シェルショック」と呼ばれたもの、今日でいう心的外傷後ストレス障害(PTSD)の兆候と見ていました。
おそらくロレンスがアラブ反乱の結末に抱いた深い悔恨をもっとも如実に示すのは、バッキンガム宮殿での出来事でしょう。1918年10月30日、彼は大英帝国勲章のナイト・コマンダーを授与されるため、バッキンガム宮殿に召喚されました。ところが、ジョージ王の前にひざまずき、騎士の爵位を拝する段になると、ロレンスは、ただ辞退するために来たのだと王に告げます。そう言って向きを変え、立ち去ったのです。前例のないこの行為に、王はロレンスに授けるはずだった勲章を手にしたまま、茫然と立ち尽くしました。トマス・エドワード・ロレンスは、1935年5月13日、オートバイ事故により46歳で他界します。自転車に乗った二人の少年を避けようとして、ハンドル操作を誤ったためでした。
最終的なまとめ
この本の核心は、第一次世界大戦の数ある悲劇の中でも、中東での出来事がおそらく最も永続的な影響を及ぼしたという点だ。T・E・ロレンスがアラブ反乱の立ち上げを助けたとき、彼はフランスとイギリスの帝国主義的な策謀が外国の土地をわがものにするのを阻もうとした。
戦争中、中東という舞台では他にも三人の男たちがそれぞれの役を演じたが、結局のところ、彼らにもロレンスにも、戦闘終結後に起きたことを防ぐことはできなかった。





