なぜ彼らは命を懸けてアメリカを目指すのか――中米移民危機の深層

『去りし人々は皆ここにいる』(2024年)は、中米移民危機を引き起こしている力に読者を直面させる。命の危険を冒してまでアメリカを目指す人々の物語を紹介し、数十年にわたる政治的選択と腐敗が、いかにしてこの人道的悲劇を形作ってきたのかを明らかにする。読み終える頃には、この危機と、それが中米とアメリカ合衆国の双方に与え続けている影響について、より深い理解を得られるだろう。

この記事で得られること:なぜ多くの人が命を懸けて安全を求めるのか

家に留まるには危険すぎるが、安全への道も同じくらい危険だと感じられる状況に直面したら、あなたはどうするだろうか。毎年、数十万人がこの苦しい選択を迫られ、暴力、飢餓、恐怖から逃れるためにすべてを置き去りにしている。彼らの多くはエルサルバドル、グアテマラ、ホンジュラスといった国々から来ており、そこでは長年の紛争、腐敗、不安定さが日常生活を特徴づけている。これらは単なる危険からの逃避の物語ではない――それは生存、回復力、そして国境の向こう側により良い人生が存在するかもしれないという希望の物語なのだ。

本記事では、この継続する危機を動かしているより深い力と、多くの人々を不確実性の中に置き去りにする欠陥のある制度を探っていく。この大きな物語には無数の人生が含まれているが、ここでは一人の人物――フアン・ロマゴサ――の旅に焦点を当てることにする。彼の個人的な経験を詳しく見ることで、より広範な危機を具体的に理解することができる。本記事を読み終える頃には、故郷を追われた人々が直面する苦難、彼らを困難な選択へと追い込む複雑に絡み合った要因、そしてこれらの危機が社会全体にどのような影響を与えるのかについて、より明確なイメージを持つことができるだろう。

1980年代、聖域運動はいかにして米国の移民政策に挑戦したか

1980年代初頭、エルサルバドルとグアテマラを暴力が引き裂いていた。自国の軍隊から拷問を受けた若きエルサルバドル人医師フアン・ロマゴサは、北へ逃れることを決意する。彼の旅はやがて、ほとんど誰も予想できなかった形で米国政府に挑戦する運動へと彼を導いていく。物語の舞台はアリゾナ州ツーソンに移る。そこでは、ジョン・ファイフという長老派教会の牧師が道徳的な岐路に立たされていた。

フアンのような中米出身者たちは、拷問や迫害といった悲惨な体験を携えて米国国境に到着していた。しかし彼らは安全を見つけるどころか、国境で追い返されていた。政府は彼らを「経済移民」とレッテル貼りし、仕事を探しているだけで命から逃れているわけではないと示唆していた。しかしファイフは彼らの身体の傷跡を見ており、その声に宿る恐怖を聞いていた。彼には、彼らが単なる求職者ではなく、生存者であることがわかっていた。そこで1982年3月のある朝、ファイフとサウスサイド長老派教会の会衆は立ち上がることを決意する。

彼らは教会をこれらの難民の聖域(サンクチュアリ)と宣言する。それは市民的不服従の行為であり、迫害から逃れる人々に避難所を提供した地下鉄道(アンダーグラウンド・レイルロード)の精神に呼応するものだった。そしてこの行為は孤立したものではなかった。ほどなくして全米の教会やシナゴーグも扉を開き始め、この静かでありながら力強い反乱に加わった。運動は広がっていく。普通の人々が立ち上がり、フアンのような難民に自宅を開放したのだ。

サンフランシスコでは、フアンは教会の裏手に避難所を見つける。昼間は働いて自活しながら、聖域運動を存続させる手助けをしていた。夜になると、彼の心はしばしば逃れてきた故郷へとさまよい、残してきた友人や家族のことを思った。この感情は彼だけのものではなく、やがて彼はサンフランシスコのドロレス公園で難民仲間のためのセラピーグループを組織し始める。それは彼らが共に慰めを見出し、癒やされる手段となった。一方、国境の最前線では、他の人々がさらに大きなリスクを負っていた。

例えば、ペギー・ハッチソンは、旧型のトヨタ・コロナを運転して米墨国境へ向かい、サルバドル人家族が闇に紛れて国境を越えるのを助けていた。どの移動も危険と隣り合わせだった。国境警備隊に捕まるという絶え間ない脅威が彼女の頭上にのしかかり、逮捕のリスクは常に現実のものだった。しかしペギーにとっては、それだけの価値があった。ところが米国政府は、これらの親切な行為をまったく別の目で見ていた。レーガン大統領の下で、当局はこれらの中米出身者は正当な難民ではないと主張し続けた。

エルサルバドルでの残虐行為の証拠があるにもかかわらず、政府は戦争から逃れるだけでは不十分であり、難民認定を受けるには個人が標的にされたことを証明する必要があると主張した。この厳しい姿勢は、やがて対決へと発展する。1985年1月、政府はジョン・ファイフとペギー・ハッチソンを含む16人の聖域運動活動家を、不法移民の密入国と保護の罪で起訴した。彼らの裁判は全国的な火種となり、アメリカ人に困難な問いを突きつけた。法と人命、どちらがより重要なのか?そして中米で展開する危機に対して、米国はどのような役割を果たすべきなのか?

この法廷闘争がアリゾナの法廷で繰り広げられる中、フアンと彼のような人々は前進を続け、少しずつ人生を立て直していく。彼らは危険の中に閉じ込められたまま、まだその声が届いていない人々のために活動をやめなかった。ゆっくりとではあったが、彼らの経験――そして彼らに寄り添ったアメリカ人たちの勇気――が、難民、亡命、そして聖域の意味について、この国が考える方法を変え始めたのだ。

宙ぶらりんから正義へ

1980年代半ばの聖域運動は、米国の移民政策に対する大胆な反抗行為であり、多くの人々にとって転換点となった。しかし、それははるかに長い旅路の中の一つの瞬間に過ぎなかった。中米、特にエルサルバドルとグアテマラは暴力によって引き裂かれ続け、騒乱はまだ終わる気配を見せていなかった。1986年、議会は移民改革および管理法(IRCA)を可決し、1982年以前から国内に滞在している数百万人の不法移民に恩赦を与えた。

一部の人々にとって、それは影から抜け出す機会だった。しかし戦争で荒廃した中米から逃れる難民の波を止めることはできなかった。レーガン政権は立場を崩さず、これらの人々のほとんどを経済移民とレッテル貼りし、母国での人権侵害の証拠を退けた。フアン・ロマゴサのような人々は、法的な宙ぶらりん状態に置かれた。フアンは亡命を申請したが、彼の事件は何年も引きずった。待つ間、彼はワシントンDCのラ・クリニカ・デル・プエブロに身を捧げ、移民仲間に医療を提供していた。

1980年代が90年代へと移り変わる頃、世界は変化を見せていた。1989年にベルリンの壁が崩壊して冷戦が劇的な終焉を迎えると、米国の外交政策にも変化が生じた――特に中米において。90年代初頭には、長年の停滞を経てエルサルバドルでの和平交渉が進展し始めた。1992年、エルサルバドル内戦は和平協定の調印により正式に終結した。しかし戦闘が止んだとはいえ、傷跡は深く残っていた。米国へ逃れてきた多くのサルバドル人にとって、帰国するという考えは気の重いものだった。

彼らは新しい国で生活を築いており、もはや馴染みのなくなった土地で何が待ち受けているのか確信を持てなかった。フアンも他の多くの人々と同様、引き裂かれるような思いを抱えていた――自分が出身した場所と、自分の故郷とした場所の間で板挟みになっていたのだ。1997年、移民権利団体による疲れを知らぬ働きかけの末、議会はニカラグア調整・中米救済法(NACARA)を可決した。これにより、紛争から逃れてきた多くの中米出身者と東欧出身者に永住権への扉が開かれた。フアンにとっては、何年もの待機の末にようやく得た一筋の安堵だった。しかし、一部の人々が安全を手に入れる一方で、新たな問題も生じていた。

中米における新自由主義的な経済政策は混乱を引き起こしていた。一方、米国はギャングのメンバーをエルサルバドルなどの国々へ送還し始めており、それが新たな暴力の波を引き起こしていた。そして以前と同様に、これらの状況が国境を越えて避難を求める人々をさらに増やした。これらすべての変化の中でも、フアンはラ・クリニカへの関わりを続けた。小さなボランティア運営の診療所として始まったそれは、今やDCのラテン系コミュニティにとって不可欠な生命線となっていた。移民の健康と権利に関する全国的な議論で、彼の声はますます大きくなっていった――彼は議会で証言し、政策立案者に助言し、声なき人々のために活動した。

2000年、フアンは新たな闘いに直面した。彼は他の二人の拷問生存者と共に、フロリダに住む元エルサルバドル軍将軍二人に対して訴訟を起こした。外国人不法行為請求法(Alien Tort Claims Act)を用いて、エルサルバドル内戦中の残虐行為についてこれらの将軍たちの責任を追及したのだ。2002年、この事件は将軍たちに責任が認められる形で結審し、フアンと他の原告は5,460万ドルの損害賠償を勝ち取った。この勝利はある程度の正義をもたらしたが、古い傷を再び開くことにもなった。そして戦争は終わったとはいえ、エルサルバドルは平和とは程遠いままであり、多くの人々がより良い人生を求めて他国へ向かうことを余儀なくされた――かつてのフアンと同じように。新たな千年紀が進むにつれ、移民問題は再びアメリカ政治の中心的な争点となった――今回はさらに鋭い刃を持つ形で。

銃火の中に捕らわれた新たな世代

2001年9月11日のテロ攻撃は、移民政策の焦点を変え、国家安全保障上の懸念と結びつけることになった。それまで主に経済移民を前提とした制度は、幾層もの安全保障措置が加えられた、より厳格なものへと変貌を遂げた。これらの変化は移民たちの生活に波紋を広げた。2005年のREAL ID法により、亡命希望者が自らの主張を証明することは著しく困難になった。

一方で、国境警備は劇的に強化された。南部国境は、新しい監視技術、拡大されたパトロール、増設された拘置所を備え、軍事化された地帯の様相を呈し始めた。20年以上米国に住んでいたフアンのような人々にとって、それは混乱と不安の時代だった。かつて難民として歓迎された彼は、今や新参者に対して閉ざされたように見える国に身を置いていた。フアンはエルサルバドルへの帰国を考えたが、故郷の状況は依然として不確かすぎると感じられた。フアンが自分の決断に葛藤する中、新たな世代の移民たちが、二つの世界の狭間で成長していた。

多くは幼児期に米国へ連れて来られるか、移民の親の下で米国に生まれ、書類上のことを除けばほぼすべての面でアメリカ人として育っていた。彼らの法的な問題は、やがて全国的な移民論争の中心となった。2012年、オバマ政権は「小児期到着者に対する強制送還延期措置」(DACA)を導入した。この政策は、不法滞在の若い移民に一時的な救済を提供し、合法的に働き、教育を受け、送還の恐怖を和らげて生活する機会を与えるものだった。多くの人々にとって、それは命綱のように感じられた。しかしDACAは長期的な解決策ではなく、一時的な弥縫策に過ぎなかった。

そして2016年の選挙がやって来た。移民問題は突如として再び真っ赤に熱い争点となり、ドナルド・トランプはメキシコ系移民に選挙戦の焦点を当て、南部国境に壁を建設すると約束した。彼の勝利は移民コミュニティに衝撃波を走らせ、米国政策の大きな転換を示すものとなった。トランプ政権は時間を無駄にしなかった。イスラム教徒が多数を占める国々を対象とした入国禁止措置や、国境での厳しい「ゼロ・トレランス」政策など、一連の強硬措置が続いた。最も衝撃的だったのは、移民の子供たちを親から引き離す措置であり、広範な怒りと法廷闘争を引き起こした。

これらの政策が根付くにつれて、中米では新たな危機が醸成され始めた。家族連れや同伴者のいない子どもたちが記録的な数で米墨国境に到着し始め、施設は過負荷状態となり、人道的緊急事態が生じた。さらにホンジュラスでは、政情不安が沸点に達した。2017年の物議を醸す再選の後、フアン・オルランド・エルナンデス大統領に対する抗議運動が勃発した。その後の弾圧が人々を限界点へと追い込んだ。これに応じて、大規模な移民キャラバンが形成され、安全のために集団で米国国境を目指して移動し始めたのだ。

これらのキャラバンの光景は、すぐに政治的争点となった。トランプ大統領は移民たちを「侵略」と表現し、国境への軍派遣まで行った。それは決定的な瞬間であり、今後何年にもわたってこの国の政策を形作ることになる移民法をめぐる闘いの舞台を整えるものだった。

回復力と帰還

トランプ政権が続くにつれ、その強硬な移民政策は中米に全力で打撃を与えた。最も重大なものの一つが「メキシコ残留政策」であり、亡命希望者は米国の法廷制度で自分たちの事件がゆっくりと処理される間、危険な国境の町で待つことを余儀なくされた――これは1980年代に教会がフアンのような難民に扉を開いたことと鮮やかな対照をなしていた。2021年にバイデンが就任した際、前政権によってさらに悪化した国境危機を引き継ぐことになった。彼のチームはトランプの最も過酷な措置の一部を撤回しようと動いたが、損害はすでに生じていた。

遠くから見守る中で、フアンは歴史が繰り返されているのを目の当たりにした。フアンの人生は一周して元の場所に戻ってきた。米国で難民と共に働き、人権のために闘ってきた年月を経て、彼はエルサルバドルに帰還していた。かつて彼が逃れた暴力は形を変えたが、完全に消え去ることはなかった。彼がウスルタンに設立に協力した診療所は患者で溢れていた――多くは米国から送還された人々で、またある者は家族が今も北へ向かおうとしている人々だった。フアンは二つの世界の架け橋となり、帰還した人々や残された人々の身体的・精神的な傷を癒やした。

米国での長年の生活とエルサルバドルへの帰還によって形作られた彼の人生は、多くのサルバドル人の経験を映し出していた――二つの場所の狭間で引き裂かれ、常に移動を続ける。しかしフアンの疲れを知らない働きにもかかわらず、中米の状況は依然として脆弱だった。ブケレ大統領の下で、エルサルバドル政府はギャング暴力と闘うために攻撃的な措置を講じ、国家緊急事態宣言まで行った。フアンにとって、エルサルバドルは何年も前に逃れたときと同じくらい不安定に感じられた。故郷に帰ることが複雑なものになることは、彼には最初からわかっていた。彼が望んだ平和は、手の届かないままであった。

診療所の患者の多くも彼と同じ不安を抱えていた――二つの国の間で引き裂かれ、自分が本当にどこに属しているのか確信が持てない。彼らもフアンと同じように、あまりにも変わりすぎた、あるいは想像していた形では存在しなかったかもしれない故郷の夢にしがみついていた。バイデン政権下での国境危機がそれ以前の中米移民の波を映し出す中で、人々を国外へ駆り立てる力が根深いものであることが明らかになった。貧困、暴力、気候変動はすべて人々を北へ押し出しており、それは数十年前にフアンを押し出したのと同じだった。そして再び、米国の対応は国境警備に焦点を当てた――人々が逃れているより深い理由に取り組むことはなく、何世代にもわたって繰り返されてきたサイクルを継続させたのだ。フアンにとって、移民の物語は常に人々についてのものだった。

彼のような人々は、二つの世界の重みを肩に背負っている。彼自身の旅路――生存、亡命、活動、そして最終的な帰還によって特徴づけられる――は、回復力と強さの証となった。避難を求める人々と共に働き続ける中で、彼はエルサルバドルと米国の絆が永遠に残り続けることを知っていた。それは闘争、生存、希望の共有された歴史によって形作られたものなのだ。本記事では、ジョナサン・ブリッツァーの『去りし人々は皆ここにいる』を通して、1980年代の米国における移民危機と、政府のレッテルよりも人命が重要だという信念に突き動かされて、普通の人々が自国の政策に挑戦するために立ち上がった方法を学んだ。

最終まとめ

教会は安全な避難所となり、政府が彼らの窮状を難民として認めようとしない中でも、暴力から逃れる中米の人々に保護を提供した。この運動は、思いやりと勇気の上に築かれ、彼らの苦しみを経済移民として片付ける法律と闘った。しかし、それで終わりではなかった。この反抗の波及効果は続き、亡命に関する議論と聖域の意味そのものを再形成していった。

一方で、人々を国外へ駆り立てるより大きな問題――不平等、暴力、不安定性――は今日もなお続いている。以上で本記事のまとめを終わります。お読みいただきありがとうございました。よろしければ、ぜひ評価をお寄せください。それではまた。

Add Comment