「いまここ」に気づくだけで人生が変わる。ブッダのシンプルな教え

『ブッダのシンプルな教え』(2013年)は、仏教の本質的な実践を飾り気なく紹介するガイドブックです。「気づき」を育むことから「いま、この瞬間」を生きることまで、仏教の最も重要な教えが明快かつ親しみやすく解説され、日常生活の中で私たちが切実に必要としている場面に結びつけられています。

心の平穏を手に入れ、物事をありのままに見る力を身につける

たとえば、午後をショッピングモールで楽しく過ごし、友達に会い、美味しいアイスクリームを食べ、欲しかった本やスマホ、洋服まで買ったのに、家に帰るとただ疲れ果てて虚しさだけが残り、あの興奮はどこへやら――そんな経験はありませんか。あるいは、電車に乗り遅れたり支払いが遅れたりするだけで頭が痛くなるほど、いつも不安に苛まれている人もいるでしょう。子どもの安全や仕事の安定といった、もっと深い悩みを抱えているかもしれません。欧米の多くの人は、不満や憂鬱、恐れに満ちた日々を送っています。

私たちは何を見逃しているのでしょう。なぜこれほど多くの著名人が仏教に共感するのでしょう。実際、ビル・クリントン、フィリップ・グラス、オーランド・ブルーム、ティナ・ターナーといった面々は、仏教思想への傾倒を公言しています。この要約を読み進めると、仏教には実に多くの叡智が詰まっていることがわかります。仏教は、私たちが探し求めているすべてのものは、すでに目の前にあると教えているのです。

私たちが渇望しているのは、現実をありのままに体験することです。しかし、数え切れない欲望や恐れ、思い込みが、あるがままの世界から私たちを隔てるヴェールのようになっています。幸いにも、偽りの人生を送り続ける必要はありません。今この瞬間を生き、苦しい感情と向き合い、心の平穏を見つけるための実践法があるのです。この要約では、以下のことを学びます。

  • なぜ「自己」などというものは存在しないのか
  • 最善の努力を正しく注ぐ方法
  • 水滴のしたたりが教えるマインドフルネスの本質

私たちの苦しみは、物事をありのままに見て受け入れることができないところから生まれる

人生に虚しさや不満を感じていますか。何かが欠けている気がするのに、それが何だかうまく言葉にできませんか。そんなとき、仏教がその答えをくれるかもしれません。私たちが苦しむのは、現実を自分の願いや期待と比べてしまうからです。本当にすべきことは、ただ「いま、この瞬間」に気づいていることなのです。

しかし、日常生活のあらゆる場面が「いま」から私たちを連れ去る習慣で占められているため、これはとても難しいことです。私たちは多くの時間を、自分自身や他人、状況を「こうあるべきだ」という期待に照らして評価することに費やしています。たとえば夏に雨が降ると、晴れているはずだと思い込んでいるので不快になります。新たな失望を探すのに飽きると、今度は些細な欲望にとらわれ、新車や夢のマイホーム、完璧な肌を欲しがります。こうした願望や期待のすべてが、私たちと現実との間にあるヴェールです。そのせいで、せっかくの冷たい雨も、「期待していた天気ではない」という苛立ち以外の何ものでもなくなってしまうのです。

こうした世の中の捉え方は、私たちを二重に不幸にします。第一に、私たちは本物の体験に飢えているのに、実際にあるものに心から感謝しない限り、その体験を逃し続けます。第二に、現実に対して「あってほしくないもの」を期待することで、自ら失望の原因を作り出しています。仏教は、変化と戦い続ける限り、苦しみは終わらないと教えます。私たちは変化を「死へ向かうもう一歩」と見なし、死にたくない、愛する人を失いたくないと考えます。その結果、私たちは混乱と警戒と不満の悪循環に陥ってしまうのです。もし私たちの苦しみの多くが「現実をありのままに認識できないこと」に結びついているのなら、どうすれば「あるがまま」に気づけるようになるのでしょうか。

仏教は「コントロールを手放せ」と言うのではなく、そもそも私たちは最初から何もコントロールしていなかったのだと気づくことを勧めます。変化は人生に避けられないものです。私たちは生まれた瞬間から変わり続けています。成長し、成熟し、老い、そして死にます。これらのプロセスは自分の手に負えるものではありません。私たちと同様に、周りのすべてのもの、すべての人もまた変化していきます。

仏教は心の平穏を見つけるための八つの実践を勧めており、そのうちの二つは「考え方」に関わるものだ

仏教の実践は、苦しみ(ドゥッカ)という岸から対岸へ渡るための「いかだ」のような役割を果たします。その八つの鍵となる実践とは、正見(正しい見方)、正思(正しい意図)、正語(正しい言葉)、正業(正しい行い)、正命(正しい生き方)、正精進(正しい努力)、正念(正しいマインドフルネス)、正定(正しい瞑想)です。ここでは、これらのうち二つの側面に焦点を当てましょう。まず、心の平穏を見つけるためには、世界を固定的な概念の背景として見る癖を手放す必要があります。

世界は一つの全体であり、絶えず変化しています。命の循環や、水が液体から気体、固体へと姿を変えることを考えてみてください。にもかかわらず、私たちは個々の一時的な側面だけを見つめ、それを固定した概念や意見に閉じ込めようとします。それは万華鏡を覗きながら、たった一つの模様に固執しているようなものです。しかし、物事を認識する方法がどれほど多様か考えてみてください。たとえば、ある少年がネズミを手なずけたとしましょう。少年の目には、そのネズミは可愛くて抱きしめたくなる愛らしい存在です。ところが母親は、同じネズミを不潔で気持ち悪いものと見なします。

どちらの見方も恣意的で不完全です。このような見解の違いは、たとえば母親がネズミを家から追い出すといった場合、大きな衝突の原因になりかねません。他人の見方を判断したり、自分勝手に解釈したりしないよう学ぶことで、衝突をなくすことができます。ブッダはこれを「正見」を身につけることと呼びました。

「正思」とは、物事をありのままに見ようとする確固たる決意です。今この瞬間に立ち戻り、この瞬間を意識し、自分の人生に他の何かを求めることなく、ただ「目覚めている」ことを意図することです。言ってみれば、正思とは「正見」を繰り返し実践しようとする強い意志にほかなりません。

さらに鍵となる二つの実践が「正念」と「正精進」だ

正思が「物事をありのままに見ようとする強い決意」だとしたら、それは悟りに向けて自分を追い立てるべきだということでしょうか。いえ、そうではありません。ブッダが「正精進」と呼んだのは、力まずに行動し、考え、自分でコントロールできないものをコントロールしようとしないようにすることです。たとえば、沼地を進むのでもない限り、自然な動きに「がんばって踏ん張る」必要はありません。もしそうするなら、それはやり方が間違っているのです。

正精進は、悟りを達成しようと無理をしてはならず、達成できるかどうかを心配する必要もないことを意味しています。正精進とは、自分の手に負えないものをコントロールしようとしないことです。古いことわざにあるように、馬を水辺に連れて行くことはできても、水を飲ませることはできません。一方、「正念」は、静けさを見つける助けになります。日常生活では、私たちはある状況に対して反射的に反応するか、その反応を抑え込もうとしがちです。こうした生き方をしている限り、私たちは外部の影響に非常に脆弱で、ほんの些細なことにも苛立ってしまいます。たとえば、蛇口からポタポタ落ちる水滴のイライラする音を思い浮かべてください。

「正念」を実践すると、それとは違ったことをします。状況そのものではなく、その状況が自分にどんな感情を引き起こすかに意識を向けるのです。その反応を判断せずに観察します。その苛立ちは体のどこに感じますか? 歯を食いしばっていませんか、頭がズキズキしませんか? しばらくこれを続けると、呼吸が深くなり、顎の力が緩んでいくのを感じませんか? マインドフルネスの実践には心を落ち着ける効果があります。正念を実践することで、自分を本当に苦しめているのは自分自身の反応であり、その反応はしばしば自分の考えや態度が引き起こしているのだと気づくようになります。

「自己」という概念は、私たちの個性を正しく定義するものではない

私たちは日常生活の中で、ブッダの時代の人々とよく似た哲学的なジレンマを今も経験しています。自分とは何か? 死んだらどうなるのか? 死後、自分はいなくなってしまうのか? と、私たちは絶えず自問しています。

私たちは当然のこととして、一人ひとりに明確な人格、つまり「自己」があると考えがちです。しかしその人格の本質については、何世紀にもわたって多くの議論と混乱がありました。ある立場は、肉体に一時的に閉じ込められた不滅の魂の存在を主張します。ヒンドゥー教では、この不滅の魂を「アートマン」と呼びます。対立する唯物論は、私たちは単なる心身からなる存在にすぎず、肉体が死ねば心も消滅する、と考えます。

この理論は現代の無神論的な信念を表すだけでなく、古代インドにもその起源があります。仏教によれば、これらの立場はどちらも同じ幻想に陥っています。実際には、「自己」や「人格」などというものは存在しないのです。「人格」「魂」「自己」といった概念を用いて、私たちは流動的で絶えず変化する現象を、固定された不変の概念で捉えようとしています。私たちは自分自身を、時間という流れに浮かぶコルク栓のように見る傾向がある、と言えるでしょう。

仏教はこうした概念を「固定化された見解」として批判します。自分の内側を覗いてみれば、自分は絶えず変化していることがわかるでしょう。あなたの考え、感情、思考、態度は、常に流動しています。ブッダは個人について語るとき、人生の中心にあるこの絶え間ない動きゆえに、私たちのことを「流れ」と呼びました。つまり私たちは流れに浮かんでいるのではなく、私たち自身が「流れ」そのものなのです。

真実は、すべてのものは一つの全体に属しているということ

現実はしばしば、対立と差異に満ちた世界として現れます。しかし、なぜそう見えるのでしょうか? それは、私たちの世界観が「相対的な真理」でできており、それを用いて世界を理解しようとするからです。相対的な真理は恣意的なもので、私たちの心の中で一つの対象や概念を切り取り、それとは「異なるもの」から区別したときに生まれます。たとえば、絵と背景、男と女、善と悪のように。

壺にも向かい合った二つの横顔にも見える目の錯覚と同じで、それは「あなた」の見方次第なのです。実際、私たちの言語全体も相対的真理に基づいています。私たちは常に相対的真理と接触しているため、それが恣意的なものであることを忘れてしまいます。しかし、真実には、すべてのものは一つの全体に属し、すべてはつながっています。すべては他の出来事の結果として起こり、この世界に単独で現れるものは何一つありません。さらに、私たちが何かについて一つの概念を生み出すと、それと同時に反対の概念も生まれます。

「闇」を思えば、それは光の欠如として定義されます。両者は切り離せない一つの全体の部分です。この「全体性」こそが「絶対的な真理」です。あらゆる言葉が世界を部分に切り分けようとするのに対し、絶対的な真理は直接的で即座の知覚、つまり何も分離できないという知覚です。自分自身や他人、直面する状況についての判断をやめることを学べば、私たちは混乱と不満の悪循環から抜け出すことができるのです。

最終的なまとめ

マインドフルネスとより深い意図をもって、新しい生き方を実践し始めると、私たちは今この瞬間にとどまり、それを楽しむことができるようになります。今日からできる実践:ただ、呼吸に意識を向ける! 次に何か不快な記憶を思い出してひどく緊張してしまったら、目を閉じて、自分の呼吸に意識を集中させてみてください。やがて心は静まり、今この瞬間に気づいていることの力を発見するでしょう。

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