『間違った世界で正しくある方法』(原題:How to Be Right、2018年刊)は、著者ジェームズ・オブライエンの独自の視点から、今日最も意見が分かれる問題の数々を考察する。リベラル派のラジオ電話相談番組の司会者として、オブライエンは、自分の意見を納得させようと迫る人々と数多くの議論を交わしてきた。特に印象に残るいくつかの会話を例に挙げながら、オブライエンは、今日一般に受け入れられている意見の多くが、精査と事実に基づくことでいかに脆くも崩れ去るかを示していく。
本書のポイント:プロのトーク番組司会者が、誤った意見をいかに打ち砕くかを知る
ジェームズ・オブライエンのラジオ電話番組には100万人を超えるリスナーがいる。過去14年間、彼は実にさまざまなイギリス市民の声に耳を傾けるという特異な立場に身を置いてきた。そのなかで実感するようになったのは、現代の人々の多くが、ネットで読んだ情報を鵜呑みにし、自分が触れた意見に疑問を抱いたり、異を唱えたりしなくなっているということだ。
多種多様な電話の相手と話すなかで、オブライエンは人々に、より広い視野で物事を見せる経験を積んできた。事実、彼の会話の多くは、脆弱な議論を切り崩すその手腕によって瞬く間に拡散され、話題となった。
移民問題からブレグジット、フェミニズム、トランプに至るまで、今日の差し迫った問題の数々について、オブライエンのもとには記憶に残る電話がいくつも寄せられている。そうした会話はいずれも、異論を唱えられないまま放置される意見がはらむ問題を完璧なまでに映し出している。また、論理と理性と事実をもって誰かが反論を始めれば、いかに形の悪い意見が簡単に崩れ去るかも示している。この要約では、オブライエンの会話を分析し、ニュースの背後にある真実を明らかにする方法を探っていく。
さらに、この要約では次のようなことがわかるだろう。
- EU離脱支持の主張が、いかにあっけなく崩れ去るか
- ポリティカル・コレクトネス反対論が、実は誤った噂への反応に過ぎない場合があること
- 「ナニーステート(過保護国家)」の事例が、企業の強欲に対する正当な戦いであることが多いこと
メディアのイスラム教の扱いが、人権を脅かす危険な思想を人々に植え付けてきた
著者が1970年代から80年代にかけてイギリスで育った当時、IRAの爆弾テロによる極度の緊張が社会に張り詰めていた。当時、彼の父親は記者だったが、名字にアポストロフィが付いていたために、アイルランド武装勢力を支持し「殺された子供たちの血の責任がある」と非難する手紙が届いた。
残念なことに、ここに示される短絡的な思考は、時代とともに衰えるどころか、今もなお健在だ。ただ、標的はアイルランド人全員が潜在的なテロリストと見なされる代わりに、すべてのイスラム教徒がそう見なされるようになった。実際、オンラインのコメント欄やツイッターのようなSNSのおかげで、短絡的な一般化の傾向は増すばかりのようだ。
しかし、さらに憂慮すべきなのは、『サン』紙、『デイリー・ミラー』紙、フォックス・ニュース、ブライトバート、さらには『デイリー・テレグラフ』紙といった報道メディアが、恐怖をあおる戦術で読者の関心を引き、緊張をさらに高めていることだ。イギリスで最も発行部数の多い新聞『サン』紙は、「平和を望むなら…イスラム教を減らす必要がある」という見出しで論評を掲載した。
ラジオ番組の司会者として、著者は「すべてのイスラム教徒は何らかの形でテロ行為の責任がある」と決めつける思想に明らかに影響を受けた人々と話してきた。
そんな一人が、マーロウ出身のリチャードだ。彼は、イスラム教徒は『シャルリー・エブド』のパリ本社襲撃について謝罪すべきだと考えていた。結局、襲撃の実行者たちは「イスラム教の名の下に」行動したと主張したのだから、と。著者はリチャードとしばらく話し、襲撃とは無関係な人に、犯行声明を出した者が「イスラム」という言葉を持ち出したからという理由で謝罪を求めるのは、まったく筋が通らないことを説明した。自説を強調するために、オブライエンは「誰かが『リチャード』という名前すべての人の名のもとにテロ行為を行ったらどうか」という仮定の話を持ち出した。もちろん、電話のリチャード自身は謝罪の必要性を感じないはずだ、と。
残念なことに、その後何年にもわたって、リチャードと似たような考えの人々から電話がかかり続けた。マーティンという電話の主は、イスラム教徒は集団として「自分たちのなかの悪いリンゴを取り除く」ことにもっと力を入れるべきだと主張した。スンニ派やシーア派のように、イスラム教には互いに非常に異なる複数の宗派があるにもかかわらず、「イスラム教徒はみな同じ」というおおざっぱな固定観念に固執する人が、いまだにあまりにも多いようだ。
多くのブレグジット支持者は、検証を経なかった欺瞞的な離脱キャンペーンに騙されたようだ
今日では、ある考えが十分に精査されることなく主流に躍り出ることが、あまりにも容易くなっている。だからこそ、著者がラジオ番組で試みることの一つは、ソーシャルメディア上で安易にリツイートやシェアが繰り返されている意見に、疑問を投げかけることだ。
多くの場合、彼はただ電話の相手に、自分の立場を詳細と事実で擁護し裏付けるように求めるだけだ。EU離脱支持派のスポークスマンが離脱を望む理由として挙げた説明を、そのまま受け入れている電話の相手たちにも、この方法は確かに当てはまった。なかでもよく聞かれた理由は、イギリスが不公平か、何らかの形で有害なEUの法律に従うことを強制されているというものだった。
ノッティンガムのアンディという電話の主は、「独立し、自分たちの法律を自分たちでコントロールできる」ようにすることで、イギリスは恩恵を受けると信じて、離脱に投票した。誰かが「法律」の話を持ち出すと必ずそうするように、著者はアンディに、従うことを強制されたくない法律を一つ挙げてほしいと尋ねた。
何度かのやり取りのあと、アンディは法律を一つも挙げられないことを認め、話題を移民に切り替えた。ブレグジットに関する多くの会話は、最終的にこの問題に収束する。なぜなら、『デイリー・メール』などの右派メディアの支持を受ける離脱支持派が、移民が経済に害を与え、賃金を押し下げ、あるいは平均的なイギリス市民の日常生活に悪影響を及ぼしていると、繰り返し示唆してきたからだ。
しかし、事実は、移民に関連する賃金低下を示す確かな証拠は、非熟練労働市場におけるごく小さなものに限られている。これは、最近起業したばかりのアンディには影響のない話だ。やがてアンディは、実のところ自分が本当に悩まされているのは、市中心部で「統合しようとしない移民の群れ」を目にすることだと認めた。そこで著者は、すでにノッティンガムに住んでいるはずの「移民の群れ」について、EUを離脱することで一体何が変わるのかと尋ねた。
するとアンディは少し後退し、人種の問題ではなく、町の中心部にいる「イギリス人」の群れも好きではないのだと訂正した。会話の終盤には、アンディも著者も笑っていた。つまるところ、アンディは人の群れが嫌いで、自分が何も知らない法律に従うのが嫌だという理由で、離脱に投票したように見えたからだ。
しかし、笑えないのは、イギリスの離脱決定が、すでにアンディのようなスモールビジネスに打撃を与えているという事実のほうだ。そして離脱支持派は、当初の景気後退は長くは続かないと主張するが、これもまた、大いに疑問の余地のない信仰がなければ信じられない類の話である。
倫理や宗教を理由に同性愛に反対する議論は、精査に耐えない
公共の議論の的になる他の問題とは異なり、同性愛が雇用を奪ったり、公的資金を浪費したりしていると主張する者はいない。実際、同性愛に反対する議論はたいてい道徳的な立場からなされるが、その道徳の出どころは、問いただしてみるとたいてい怪しいものだ。
たとえば、同性愛は個人のライフスタイルの選択にすぎない、という根強い思い込みがある。なお、指摘しておかなければならないが、この思い込みは、これまでのところ著者の番組に電話してきた男性たちからのみ述べられている。この手の論拠が出るたびに、著者はお決まりの答えを返す。「では、あなたはいつ異性愛者になることを選んだのですか?」これは多くの場合、ずばり議論の不条理を突く。なぜなら、その主張は誰もがすべの性に等しく惹かれ、そのうえで意思決定をすることを暗に意味しているからだ。すると相手はしばしば慌てて、宗教を持ち出す。
電話のデイビッドは、聖書は旧約も新約も、同性愛が罪であると明確に示していると主張した。新約聖書について言えば、著者は福音書に書かれたイエスご自身の言葉と、イエスに会ったことのない聖パウロのような人物が言ったこととの違いを指摘するのを好む。正確に言えば、イエスが同性愛について何かを語ったと引用されている箇所は一か所もない。つまり、同性愛に関する新約の記述は、パウロが個人的な懸念を綴った手紙以上のものではなく、その手紙もまた、長年にわたって多様な解釈をされてきたにすぎない。
同性愛に関して最も頻繁に引用される聖書の一節は、旧約聖書のレビ記18章22節だろう。「あなたは女と寝るように男と寝てはならない。それは忌み嫌うべきことである」。誰かがこれを持ち出したら、同じレビ記の11章10節から12節で、海の生き物のうち「ひれ」や「うろこ」のないものを食べることも「忌み嫌うべきこと」だと述べられている事実を指摘することができる。
それでも聖書の一部が時代遅れかもしれないと誰かを納得させるのに不十分なら、レビ記19章19節で「二種の糸で織った衣服」を着ることも「忌み嫌うべきこと」と見なされていることを思い出させればいい。安息日に働くこと? それは石打ちの刑に処されるに十分な悪行とされてきたのだ。
「ポリティカル・コレクトネス」という言葉は政治利用され、実体のない問題への怒りをあおるために使われている
ジョージ・オーウェルの『1984年』が描く未来のディストピアは、現代社会への洞察力で読者を唸らせ続けている。その細部の一つが、作中の「二分間憎悪」だ。人々は毎日、抽象的で不明瞭な事柄に対して怒りを感じるよう仕向けられる儀式を強いられる。テーマは何でもよく、ただ人々が激怒することだけが目的だ。実際のところ、肝心なのは怒りの矛先が簡単にどこへでも向け変えられてしまうことである。
まさにこの怒りの創出こそ、イギリスのタブロイド紙が最も得意とするところだ。彼らは毎日、漠然として、しばしば無意味な怒りの理由を人々に提供している。そうした不毛な憤慨の口実は、しばしば「ポリティカル・コレクトネスの行き過ぎ!」という枠組みで語られる。
その古典的な例が、「ウィンターバル」の後日談だ。ウィンターバルは、イギリスの伝統が異文化の侵略者たちによって損なわれていると皆に信じ込ませたい右派の陰謀論者たちによって、何年にもわたって語り継がれてきた、他愛ない話だ。広く信じられている誤解は、ウィンターバルという言葉がクリスマスに取って代わるために導入された、というもの。エリスのアンドリューという電話の主は、「他の人を怒らせるかもしれないから、クリスマスを祝えなくなった……今はウィンターバルと呼ばなきゃいけない」と不平を漏らしたものだ。
しかし、もしアンドリューがこの話を鵜呑みにせずにきちんと疑問を抱いていたら、ウィンターバルがバーミンガムの都市計画家マイク・チャブによって考案されたアイデアだとわかっただろう。チャブがしたかったのは、街の年末の祝祭をより長く楽しめるようにする方法を見つけること、ただそれだけだった。冬のフェスティバルの短縮形として「ウィンターバル」と名付けることで、チャブは3か月にわたる祝祭を可能にしたと考えた。この長期間のフェスティバルの目的は、複数の祝日を一つの飾り付けで済ませることで経費を削減することにあった。もちろん、その祝日にはクリスマスも含まれている。
誰もクリスマスを違う名前に変えようとしたわけでも、イギリスでクリスマスを祝うことが誰かを怒らせるだろうとほのめかしたわけでもない。10月から12月にかけて行われるすべての祝賀をひとまとめにしたフェスティバルを企画することで、わずかな出費を節約しようとした一人の職員の話にすぎなかったのだ。
それにもかかわらず、『デイリー・メール』のようなメディアは、これをもまた一つ、「行き過ぎたポリティカル・コレクトネス」の格好の例として利用した。彼らがこうしたことをしたのは今回が初めてではない。イスラム教徒をなだめるために公共の建物からユニオンジャックの旗が撤去されたという、似たような事実誤認の噂も後を絶たない。しかし、もし誰かがこの噂に疑問を持って調べさえすれば、ウィンターバルの場合と同様、それは単なる虚偽であることがわかるだろう。
フェミニズムに関する会話では、人々は問題のある伝統へと逆戻りしたい願望を露呈してきた
人々は移民やポリティカル・コレクトネスについて不平を言うとき、しばしば「伝統的な価値観の浸食」を心配していると口にする。しかし、真実は、多くの伝統は必ずしも守るに値するものではないということだ。
憂慮すべき事実を挙げれば、1984年当時の英国の裁判所は、夫が妻に性行為を強要しても、それを強姦とは見なさなかった。そして、1975年に性差別禁止法が成立してようやく、女性が金銭の融資を申し込む際に、保証人として夫や父親の介入を求められることはなくなったのだ。
英国のごく最近の過去をほんの少し振り返るだけで、歴史のゴミ箱に捨て去ったほうがましな社会通念など、すぐに見つかる。それにもかかわらず、著者のラジオ番組でフェミニズムの問題が話題にのぼるとき、人々がいとも簡単に、男女の平等を「男性の権利」への攻撃と決めつけるのには、ただただ驚かされる。そして、こうした議論が持ち上がるとき、それは女性が性や安全、モノ扱いされることに関する決定にほとんど発言権を持たなかった時代へと、文化的な時計の針を戻したいという願望の表れとしか受け取れない。
この種の考え方の、より不穏な一例は、2018年に25歳のアレック・ミナシアンがトロントで10人の命を奪い、その凶行の理由として、自分が「インセル」――つまり「非自発的独身者」――であるという境遇を挙げた事件の後に現れた。この悲劇の直後、カナダの心理学教授で、ネット上の有名人でもあるジョーダン・ピーターソンが持論を展開した。ピーターソンは、自らが「強制的モノガミー」と呼ぶものを提唱したのだ。彼の見解では、女性が自由に性的パートナーを選べるとしたら、彼女たちは例外なく「高い地位」の男性を選び、ミナシアンのような男性は神への怒りに駆られて暴力に走ることになる。だからこそ、何らかの形での「性的再分配」が必要になる、というのである。
ピーターソンは、1日あたり8万ドルの収入を生むと報じられる、収益性の高いYouTubeチャンネルを持ち、著作は100万部以上を売り上げている。「性的再分配」という考えを、あなたが真剣に受け止めるのは難しいと感じるかもしれないが、他の多くの人々が耳を傾けていないとは言い難い。実際、ピーターソンはオルタナ右翼運動や「男性の権利」を憂慮する人々の間で、一種の英雄的な地位を獲得している。
しかし、知的な人々でさえ、フェミニズムに対してやきもきし、近いうちに男性は職場で何か口にするたびに「豚」呼ばわりされる時代が来るのではないかと心配することがある。だが、繰り返すが、これは非現実的で誇張された懸念だ。そんな人たちには、「歴史的に見て、本当に憂慮すべきなのは、蔓延する性差別が常に、社会におけるファシズムの高まりを示す確かな兆候だったことだ」と思い出させてあげるといい。
「ナニーステート」をめぐる議論は、利己心と優越感の隠れ蓑であることが多い
イスラム教の危険性、移民、ポリティカル・コレクトネス、フェミニズムといった問題と同様に、リバタリアンが「ナニーステート(過保護国家)」について不平を言うのを聞いたことがあるだろう。これは、国の税金が、私たち自身から私たちを守るために使われるときに決まって持ち出される言葉だ。
よりはっきり言えば、このテーマの議論が巻き起こるのは、一部の活動家や政治家が、企業が利益の名のもとにやりたい放題の、歯止めのきかない資本主義から私たちを守ろうと、何らかの措置を講じたからだ。
ヘンリーという電話の主は、提案されている砂糖税への不平を言うために電話をかけてきた。砂糖税は、肥満や糖尿病の一因となり得る炭酸飲料や砂糖入り果実風味飲料に対し、わずかに多く負担してもらおうというものだ。ヘンリーは自分もたまに炭酸飲料を楽しむのに、他の人たちが「あまりに愚か」で砂糖の摂り過ぎの害を理解できないからといって、なぜ自分が多くお金を払わなければならないのか、それは不公平だと主張した。
この種のエリート主義は、ナニーステートの話題ではよく見られるものだ。より多くのお金や教育の機会に恵まれて生まれたことなどを理由に、自分はそうでない人々より何らかの形で「偉い」のであり、より多くの特権を得る資格があると思いたがる人々は、常に存在する。そして、「ナニーステート」のような言葉は、つまるところ利己的な精神を覆い隠すための隠れ蓑であることは指摘しておく価値がある。こうした人々は単に、自分の税金が恵まれない人たちのために使われるのを快く思っていないだけなのだ。
しかし、この問題の核心にあるのは、私たちはどういうわけか、何百万ポンドもの資金を自由に操る企業によって巧妙に操られたりはしていない、という誤解だ。子どもを露骨にターゲットにした強力な広告キャンペーンを張るファストフードチェーン企業。あるいは、中毒になるよう専門的に設計され、人々の金を確実に巻き上げるギャンブルマシン。これらがその代表格だ。
著者がこの点を突いたのは、有名シェフ、ジェイミー・オリバーが学校給食の改善に取り組んでいることについて、電話のゲイリーが文句を言ってきたときだった。ゲイリーに言わせれば、オリバーは自分の仕事に専念すべきで、彼の子どもたちが何を食べるべきかに口出しすべきではない、ということだった。著者は彼にこう言って聞かせなければならなかった。学校もファストフード企業も、彼の子どもの健康よりもお金のことを第一に考えている。それなら、テレビの料理番組に出ている一人の男が、より良い給食のために声を上げることが、そんなに悪いことだとも思えないだろう、と。
トランプは、人々にスケープゴートを与え、思考を停止させることがいかに有効かを白日の下に晒した
ドナルド・トランプの政治的台頭が私たちに教えたことが一つあるとすれば、それは、政治家は人々が聞きたいことを語ることで、大きな成功を収められるということだ。今回のケースでは、特権意識に訴えかけ、人々の不満のはけ口となるスケープゴートを提供することを意味する。特にトランプは、自分たちはより高い地位にあるという慢心を抱く白人層に訴えかけ、「彼女を牢屋へ(Lock Her Up)」や「フェイクニュース(Fake News)」といった、きわめて単純なスローガンや決まり文句を使うことで、その人たちの思考停止を可能にしている。
トランプは早くから、嘘と真実、そして「オルタナティブな現実」の境界を曖昧にすることに長けていた。彼が事実を「フェイクニュース」という言葉で片付けるとき、それはまさに、この手法そのものだ。同時に彼は、自らの就任式の観衆を「就任式を目撃した史上最大の聴衆」と形容させるような嘘を、平気で流す。
著者は、彼のラジオ番組を通じて、トランプのこうした発想がどれほど速くイギリスで広まったかを追跡することができた。ほどなくして、電話の相手たちは議論に勝つために「フェイクニュース」戦術を使うようになったのだ。
例えば、2018年7月、トランプ氏のロンドン訪問が予定されていた。到着当日、抗議者たちがおむつをした大きなオレンジ色の赤ん坊の姿をしたトランプ氏の風船を飛ばす許可を得たことに、多くの人が激怒した。
そこでジャックという電話の主は、反対の意を表明するために番組に電話をかけ、合衆国大統領としての立場にあるトランプ氏は敬意以外の何ものでもないと主張した。ジャックはたとえ話として、トランプ氏は継父のように見なされるべきで、もしその継父が遊びに来るならば、失礼な態度をとったりしないだろう、と言った。著者はこの仮定の話をさらに進め、「それは、障害を持つジャーナリストや、戦死した米国兵士のゴールドスター家族を公然と嘲笑したのと同じ継父なのか」と尋ねた。それに対するジャックの返答は、「フェイクニュースだ!」の連呼だった。
しかし、誰でも公式記録を一目見れば、トランプ氏が、自分の政策に同意しなかったために、まさにこれらの人々を公然と嘲笑した事実を確認できる。トランプ氏の過去の行動には、女性の「陰部をつかむ」と豪語した、まぎれもない実際の出来事も含まれている。だから、もしこの人物が本当に著者の継父だったなら、彼はその人物を自宅に入れることはおろか、そもそも来るように招待すらしなかっただろう。
最終的なまとめ
この要約の核心メッセージ:
今日、匿名性に覆われたソーシャルメディア・プラットフォームやコメント欄の氾濫のおかげで、多くの人々が、ろくに反論されることなく、誤った意見を広めることに成功している。これはブレグジットやドナルド・トランプ当選といった動きの背後にいる政治家や関係者にまで及ぶ話だ。反イスラムの立場、移民に対する過剰反応、ポリティカル・コレクトネスの問題といった右派の論点の多くは、精査を経れば持ちこたえられない。ジェームズ・オブライエンは自身のラジオ番組で、そうした右派の論点に飛びついた多くの人々と対話し、事実をもってその考えに異議を唱え、彼らの提案を、筋の通らない誤った結論までただ突き詰めていくことで、それらがいかに簡単に崩れ去るかを明らかにしてきた。
次に読むなら:マルコム・グラッドウェル著『トーキング・トゥ・ストレンジャーズ』
『間違った世界で正しくある方法』は、見当違いな議論が精査の前にいかに崩れ去るかを示している。しかし、ラジオのトーク番組は、自分とはまったく異なる意見を持つ人と実際に向き合うこととは、まったく同じではない。世界の見え方がまったく違う人々とのギャップを埋め、共感し、コミュニケーションをとるには、どうすればよいのだろうか?
こうした今日的で重要な問いを知るには、『トーキング・トゥ・ストレンジャーズ』が最適だ。人はいかに他者を誤って判断し、誤解してしまうのか。そのメカニズムを力強く探求し、時に悲惨な結果を招くこともあることから、他者との関わりにおいて、より寛容さと忍耐強さを持つことの重要性を説得力をもって訴えかけている。





