『ザ・メッセージ』(2024年)は、フレーミング、語り、神話、そして権力が不正義を正当化するために語る物語についての考察である。ブラック・アメリカ、アフリカ、パレスチナの相互に絡み合う歴史を手がかりに、力強い道徳的主張を提示する。真に見られたものだけが、慈しまれ、育まれる、と。
読者が得られるもの:物語の力をめぐる考察
本書は物語、語り、言葉についての本である。しかし、始まりは一枚の絵だった。肘掛け椅子に座った男性が脚を組み、釣り帽を頭にちょこんとのせ、膝の上に本を開いている。絵の下には、子どもの手で書いたキャプションがある。「パパは学ぶために本を読むんだって」。絵に描かれているポール・コーツによれば、妻が1978年に描いたものだという。
息子のタナハシがそのキャプションを書いたのは、おそらく三歳の頃だった。ポールは正確な日付を覚えていないが、その日のことは鮮明に覚えている。組合の手違いでその週の給料が支払われなかったのだ。すでに苦しい状況に、さらなる打撃だった。仕事は乏しく、金はなく、家賃の滞納は日常茶飯事。そして、気持ちも沈みがちな時代だった。七〇年代初頭の楽観は消え失せ、公民権運動は停滞していた。
革命がテレビ中継されないのはまだいいとしても、そもそも革命は起きそうになかった。そこで、元ブラックパンサー党の闘士だったコーツは書斎にこもり、読書にふけった。父は何を学ぼうとしていたのか。『ザ・メッセージ』は、その問いに対するタナハシ・コーツの答えの一部でもある。1978年当時、人生を形づくっている力について尋ねたら、父は自分の行動、つまり成功や失敗を挙げただろう。しかし枠組みを広げて見れば、ある人々の成功はより多くのものを与え、その失敗はそれほど大きな代償を求めなかったことが見えてくる。
ある人々は豊かな世界に生き、ある人々は欠乏の世界に生きていた。その根本には、権力の格差があった。しかし、視野をもう一段広げれば、その格差を「自然で正当なもの」と語る無数の物語によって支えられていることも見えてきたはずだ。ポール・コーツにとって、解放とは何よりも物語と深く結びついていた。他者があなたについて語る物語だけでなく、あなた自身が自分について語る物語も。その信念を、息子のタナハシ・コーツは本書で引き継いでいる。
私たちは見えるものにしか行動できない
なぜ作家は政治に関心を持つべきなのか。さらに言えば、なぜ政治について書くべきなのか。ジョージ・オーウェルは1946年のエッセイ「なぜ私は書くのか」で、もっと平和な時代に生きていたら、生涯を費やして「華麗な、あるいは単に描写的な書物」を書いていたかもしれないと述べている。しかし、そうはならなかった。
塹壕戦と原爆に挟まれた彼の生涯は、革命と反動、強制収容所と植民地虐殺の時代にまたがっていた。その恐怖に迫られ、彼は「一種の政治的パンフレット作者」にならざるを得なかった。これが一つの答えである。パレスチナの作家マルワーン・マフールは、別の答えを提示する。政治が彼の詩に侵入してくる理由を説明して、彼はこう語る。政治的な詩を書かないためには、鳥の声に耳を澄まさなければならない。しかし鳥の声を聴くには、「戦闘機が静かでなければならない」のだ。
この二人の作家が示唆するのは、空が戦闘機ではなくツバメで満ちているとき、文学を純粋に美的な関心事と見なすことは容易い、ということである。この問いを考えるもう一つの方法は、政治的なものと非政治的なものの境界を探ることだ。ある民の人間性が疑いを突きつけられるとき、その生活の些細で最も具体的な細部が政治化する、とブラック・アメリカの作家たちは私たちに気づかせてくれる。トニ・モリスンの小説『青い眼がほしい』を例にとろう。そこにはポーリンという登場人物が登場する。妊娠で身重の彼女は、将来に不安を抱き、自分自身の存在に居心地の悪さを感じている。
彼女は、人類の思想史の中で「おそらく」最も破壊的な観念、つまり肉体的な美しさは善良さと関係しているという考えに取り憑かれる。ポーリンにとって美と善の理想を体現しているのは、白人の女優ジーン・ハーロウだった。ハーロウの映画を観に行くとき、彼女は主人公と同じ髪型にする。劇場で、キャンディーを噛んだ拍子に歯が抜けてしまう。それは打ちのめされる瞬間である。彼女の自己像は崩壊する。
その後、「すべてが終わった」と彼女は言う。彼女は自らが「醜い」とされる存在に甘んじることを決める。欲望、不安、妄想は普遍的な文学的テーマだ。しかし、これはジム・クロウの物語である。価値と美がハーロウのような白人の身体に付与され、ポーリンのような黒人の身体には付与されない世界を舞台にしているのだ。これらのテーマを純粋に美的な観点だけで扱うことは、人間の命の格付けを、政治的な選択と構造的不平等の産物ではなく、自然で所与のものとして受け入れることを意味する。ここで、三つの議論は重なり合う。
詩人であり哲学者でもあるオードリー・ロードの言葉を借りれば、「私たちは見えるものにしか行動できない」。抑圧のシステムは、隠されているときにこそ栄える。不正義に光を当てることで、作家は変えられるべきもの、変えなければならないものを暴き出す。作家が政治と関わるとき、彼らは見られることを求める物語を明らかにするのである。
正当化の論理
奴隷制には、正当化の論理、つまり根拠、物語が必要だった。束縛、恐怖、搾取がなぜ自然で正当なのかを説明する理由がなければならなかった。それは奴隷所有者を安心させ、奴隷監督や船長、大統領や聖職者、王や女王の良心の呵責を和らげるもの。目と耳を持つ普通の人々に、彼らが見聞きする恐怖がどういうわけか正しいのだと納得させるものだった。
この必要を満たすための論文や考察、小説や寓話、歴史書や民族誌の武器庫は、何世紀もかけて築き上げられた。その鍛造に加わったのが、19世紀の奴隷所有者であり人類学者でもあったジョサイア・ノットのような人物である。ノットは奴隷制から二重に利益を得た。第一に奴隷所有者として、第二にいわゆる「ネグロ人種」を専門とするいわゆる学者として。ノットが言う「大きな問題」とは、人種の共通起源だった。これは当時の進化科学と神学の教義の両方によって確立された事実である。もし私たちが皆、共通の祖先を持ち、同じ人間家族の一員なら、なぜ一つの枝が選び出され、奴隷化される運命にあるのか。「人種」という発明がこの問いに答えた。
もしアフリカ人がどこか未発達で、人間らしさが少ないのなら、彼らを搾取することの醜悪さは目立たなくなる。それが正当化の論理だった。だが、別の問題があった。1799年、フランスがエジプトに侵攻した。ナポレオン軍に同行した考古学者や言語学者たちはピラミッドや墓を略奪し、ギリシャやローマより古い文明を発掘した。エジプト学はまずヨーロッパで、次いでアメリカで隆盛を極めたが、それは奴隷制が最盛期に達した時期と重なっていた。
古代の芸術と科学がアフリカに起源を持つという新たな考えは、ノットのような人物の文明理論と相容れなかった。当初ノットは、他のエジプト学者と同様に、古代エジプトの黒人性の痕跡を消し去ろうとした。後に研究が進むと、彼は新たな主張にたどり着いた。黒人の古代エジプト人が存在した証拠はある、と彼は認めた。だが、この「記念碑的な歴史」は彼ら自身のものではなく、彼らはより発達した人種の奴隷だったに違いないと。かくして、驚くべき偶然により、地球の反対側の、何千年も前の社会が、ノットのアラバマ州のプランテーションとまったく同じように組織されていたことが判明したのである。
黒いエジプト
観念は争われ、逆転させられ、その発明者たちに刃を向けることができる。古代エジプトは、19世紀アメリカにおけるそうした観念の一つだった。それは戦場であり、闘争の場であり、競合する物語が衝突する地勢だった。「黒いエジプト」という考えは、ノットの後継者たちにつきまとった。
教育者サミュエル・トレイン・ダットンもその一人だった。ノットと同様に、彼は「未開の」アフリカ人は生まれつき奴隷に適していると主張した。彼が非人間化しようとしていた人々に酷似した黒人たちが古代エジプトで繁栄していたという事実は、彼が語りたいと思っていた永遠の束縛の物語に合致しなかった。アメリカの学校は、子どもたちに「古代エジプト人がネグロとどのように、そしてなぜ異なるのか」を教えなければならない、とダットンは言った。この解釈をめぐる戦いの重要性は、プロテスタント教会初のアフリカ系アメリカ人司教となったジェームズ・セオドア・ホリーのような黒人ナショナリストたちには明白だった。世界中のノットたちが、「その狭量な魂と壊疽した心が満足するまで」、黒人エジプト人が大西洋奴隷貿易の犠牲者と同じ人間家族の枝に属さないことを証明してみせればいい、と彼は1859年に書いた。
古代エジプトは、彼らの主張を常に矛盾させるだろう。ホリーは、歴史家セントクレア・ドレイクが「名誉回復主義の伝統」と呼んだものに属していた。それは、自らに対して武器化されてきた歴史を奪還する黒人知識人の運動である。黒いエジプト、黒いファラオ、アフリカの王国群がその試金石だった。ノットやダットンのような人物はアフリカ人は生まれつきの奴隷だと言い、名誉回復主義者たちは彼らが生まれながらの王族だと反駁した。1975年にボルチモアで生まれた少年に与えられた「タナハシ」という名は、この伝統の一部なのである。
古代エジプトがヌビア王国を指した呼称であるその名は、ブラックパワー、アフロヘア、サン・ラーのレコードの時代に生まれた、名誉回復主義的な名前だ。名誉回復主義者たちは、異なる物語を書こうとした。彼らの語りでは、ブラック・アメリカ人は古代文明の継承者であり、その由緒ある基盤の上に築かれる未来秩序の市民だった。その衝動は理解できる、とタナハシ・コーツは書く。少なくとも彼自身は常に共感を覚えてきたのだ、と。
しかし、その物語はあまりに「きれい」すぎる。そして、それが疑わしく感じられると彼は考える。名誉回復主義者の手にかかると、民の価値はカーストと王国、記念碑の建設、戦争をする能力、国家としての地位に根差すことになる。ある征服神話に対して、自らの征服神話を対置し、人間の尊厳は人間の精神と身体ではなく、石の記念碑に宿るという抑圧者の観念を暗黙のうちに受け入れているのだ。
宇宙の道徳の弧
「ヴィンディケート」という語は、複雑な語源を持つラテン語の動詞vindicare(解放する、復讐する、主張する)に由来する。この三つの意味は、黒人の名誉回復運動に響き渡っている。それは民を解放し、その抑圧に復讐し、長きにわたって否定されてきた尊厳を主張する運動である。この三重の意味での正当化=名誉回復は、もう一つの力強い物語、イスラエル国家建設の物語にも反響している。宇宙の弧が正義に向かって曲がっていくというこの模範的な事例は、イスラエルのホロコースト公式記念館であるヤド・ヴァシェムの建築に刻み込まれている。
記念館を進むと、まず「名前の書」に遭遇する。七十巻あり、各巻は大人の背丈ほどの高さで、それぞれ一万七千五百ページに、ホロコーストで殺害された五百万人のユダヤ人の名前が記されている。その後、1948年にダヴィド・ベングリオンがイスラエル国家の創設を宣言するざらざらした白黒映像を目にする。『シンドラーのリスト』のような映画も同じ弧を描いている。占領下ポーランドの容赦ない陰鬱さは、シンドラーに救われたユダヤ人たちが約束の地に新たな家を築く場面で幕を閉じる。背景には「黄金のエルサレム」の歌が流れる。暗闇が光に道を譲る。比喩的にも、文字通りにも。
二千年にわたる抑圧の不正は正され、迫害された民は神から与えられた故郷への帰還を果たした。「故郷」という言葉は、この物語の中で二重の意味を持つ。それは聖域、つまり安全と家族の温もりの場である。しかし同時に、それは権力にも関わっている。二千年の間、中傷された民は、ほとんど保護を与えようとしない国々から逃れ、避難所を求めて地上をさまよった。ついに、自らの武力の下で、世界の国家群の中に正当な地位を占めるに至った。この道徳的に説得力のある物語は、イスラエル国家の自己像と神話の基盤である。だが、それは何かを取りこぼしている。
大惨事
1880年代にロシアでポグロム(ユダヤ人迫害・虐殺)の波が起きた後、アメリカの聖職者ウィリアム・E・ブラックストンは、彼の言葉を借りれば「今いる場所にとどまることはできず、かといって他に行く場所もない」何百万人ものユダヤ人の窮状を嘆いた。この悲劇的な状況がこれほどまでに不条理だったのは、明白な解決策があったからだ。パレスチナである。ここは、ブラックストンによれば、民のいない土地であり、土地のない民がいる場所だった。
九十年後、イスラエルの首相ゴルダ・メイアはこの考えを反復した。イスラエルが建国された土地には所有者がいなかった、と。メイアはそこに人が住んでいなかったと言っているわけではない。彼女の言葉は非常に正確だった。自らをそう考えるパレスチナ人という民は存在しなかった、と。言い換えれば、民の存在は、国民国家として組織された故郷を持っていることに由来する。そのような国家を持たない人々の、彼らが住む土地への請求権は無効であり、法的地位を欠き、いかなる権利も生み出せない一時的な存在にすぎない、という論理である。
この非難は「無国籍の」ユダヤ人にも向けられてきた。イスラエルの建国者たちはユダヤ国家を樹立することでそれに応えたが、彼らはその非難の前提を受け入れた。この正確な意味での無国籍性が、パレスチナ人がナクバすなわち「大惨事」と呼ぶものを正当化する根拠だった。1948年、歴史的パレスチナの土地から七十五万人のパレスチナ・アラブ人が暴力的に追放されたのである。この正当化の言語は、それ以前の土地収奪の言語を想起させる。ユダヤ国家の樹立を唱えたシオニストたちの著作の中で、パレスチナ人はおなじみの姿で登場する。アメリカの「インディアン」の姿である。どちらの民も、彼らが住み着いていた土地を改良する能力がないはずだとされた。
シオニストの指導者であり知識人でもあったゼエブ・ジャボチンスキーにとって、パレスチナ人がこれらの土地に抱く愛着は非合理的だった。それは、スー族が自分たちの「広がる大草原」に対して感じたのと同じ種類の「本能的な嫉妬深い愛」だった。シオニズムの父テオドール・ヘルツルも同意見だった。ユダヤ国家は「野蛮」に囲まれた「文明の前哨地」になるだろう、と彼は言った。その物語は見慣れたものだったし、その結末も同様だった。イスラエルの歴史家ベニー・モリスが述べたように、アメリカの民主主義は「インディアンの絶滅なしには創造され得なかった」のである。
すべての命は一つの宇宙である
アヴネル・グヴァリヤフは、自分が聞かされてきた物語に疑問を持ち始めた日のことを覚えている。彼はイスラエル軍の軍曹だった。部下たちが占領下のヨルダン川西岸地区の家に押し入った直後だった。彼が中に入ると、兵士の一人が叫びながら、おびえた小さな女の子を抱いた男にライフルを向けていた。
グヴァリヤフが状況を把握したとき——その男は娘をトイレに連れて行こうとしていただけだった——少女はすでにお漏らしをしていた。それは、「いったい俺たちは何をやっているんだ」と思う瞬間だったと彼は言う。イスラエルの歴史家ベニー・モリスは、イスラエルの建国者たちがパレスチナ人の追放に着手した以上、仕事をやり遂げるべきだったと論じた。彼の見方では、イスラエル・パレスチナ紛争は、それをやり遂げなかったことの結果である。物語はそこで終わっていたかもしれない。それは歴史家の考え方だ。すべては過去形なのである。
では現在はどうか。パレスチナ人とイスラエル人は、法的にはともかく現実にはイスラエル国家の完全な支配下にある土地に同居している。この支配は無数の形で現れている。グヴァリヤフが語ったようなパレスチナ人への急襲、ドローン監視、顔認識技術、分離壁、回転式改札口、そして救急車を遅らせ、子どもたちが学校に着くのを妨げる予測不能な検問所。違法なイスラエル入植地は急増した。1993年のオスロ合意の時点では入植者は十一万一千人だったが、今日では五十万人を超えている。入植地は、ユダヤ系イスラエル人が民事法によって統治され、パレスチナ人が軍事管轄下に置かれるという二重の法体系を固定化させた。
日常生活のインフラは分離されている。黄色いナンバープレートのユダヤ系イスラエル人はほとんどの道路を利用できるが、緑のナンバープレートのパレスチナ人はできない。水は国家によって管理され、パレスチナ人が雨水を集める権利は否定されている。今のところ、「ユダヤ人の民主主義」という言葉は、文字通りの意味を持っている。ユダヤ人だけのための民主主義なのである。
未来はどうか。自身の本について語る中で、タナハシ・コーツはかつてテレビで見た抗議者の言葉を紹介した。「すべての命は一つの宇宙だ」と彼女は言った。変化は物語から始まる、と彼は示唆する。その言葉の重みと真実を私たちに心から感じさせてくれる物語から。状況を変えるためには、それぞれの宇宙の中に宿る共有された人間性を照らし出す物語が必要なのだ。
まとめ
タナハシ・コーツ著『ザ・メッセージ』の要点は、芸術と政治は見かけよりもはるかに深く絡み合っているということだ。政治システムは法律や政策を通じて機能するだけではなく、自分自身や他者について私たちが語り、信じる物語によって支えられている。それらの物語が私たちの世界の見方を形づくり、行動は認識に依存する以上、正義のための闘いは、新しい種類の物語を語り始めたときにしか始まらないのである。以上が本書のまとめです。
お楽しみいただけたなら幸いです。よろしければぜひ評価をお寄せください。皆様からのフィードバックはいつも励みになります。次回もお会いしましょう。





