東ドイツの牧師の娘が、なぜ“世界最強の女性”になれたのか?メルケル回顧録『フライハイト』

フライハイト(2024年)は、元ドイツ首相アンゲラ・メルケルが退任から3年後に執筆した自伝です。本書でメルケルは自らの人生を振り返り、現代の出来事や政治史の一端を垣間見せてくれます。

この要約で得られること:元ドイツ首相アンゲラ・メルケルの生涯とキャリアを探る

東ドイツの独裁体制下で育ち、物理学の博士号を取得し、慣れない自由の中で自分を見つめ直し、その後、政治家としてとてつもない飛躍を遂げる。そんな唯一無二の人物が、アンゲラ・メルケルです。東ドイツ風の髪型をしたごく普通の女性だった彼女は、やがて世界で最も影響力のある女性へと上りつめました。メルケルは16年間にわたりドイツ連邦共和国の首相を務め、2021年12月8日にオラフ・ショルツへその座を譲りました。自伝が出版された2024年、彼女は70歳。人生のうち35年を東ドイツで、そして35年を統一ドイツで過ごしてきたことになります。

アンゲラ・メルケルの政策や政党を支持する必要はありません。率直な批判こそが、メルケルが常に擁護してきた自由な社会の特徴だからです。しかし、この要約ではメルケルの人生における最も重要な節目に光を当て、彼女の並外れた歩みを理解する手がかりを提供します。すべては1954年、ハンブルクから始まりました…

守られた子ども時代

アンゲラ・メルケル(旧姓カスナー)は1954年にハンブルクで生まれましたが、生後わずか数週間で一家は東ドイツへ移住します。理由は、プロテスタントの牧師だった父親が「自分はあちらで必要とされている」と確信していたからです。テンプリンでカスナー一家が住んだのは「ヴァルトホーフ」という教会の継続教育のための神学校でした。

同じ敷地内には、知的障害者向けの教会施設もあり、園芸、農業、木工の作業所が併設されていました。要するにヴァルトホーフは、画一的な国の中にあって、もうひとつの小宇宙のような存在だったのです。1961年にベルリンの壁が築かれると、カスナー一家は自分たちが独裁国家に生きていること、個人の権利など紙の上にしか存在しないことを思い知らされました。アンゲラは幼い頃から、自分の言動に気をつけなければならないと自覚していました。自由に何でも話せ、不満をぶつけ、東ドイツについての本音を言い合えたのは、家にいる時と家族の間だけでした。ヴァルトホーフは彼らにとっての避難所であり、一歩外に出れば口を閉ざしていました。

牧師の娘であるアンゲラは、学校ではよそ者でした。クラスでただ一人、昼食を学食でとることを許されなかった生徒でもあります。なぜなら母親が働いていなかったからで、労働者と農民の国家ではそれが軽蔑される理由になりました。しかし、だからといってアンゲラが人気者でなかったわけではなく、実際にはたくさんの友人がいました。よそ者だったことが、彼女を学校で優秀であろうと駆り立てたのです。

アンゲラは、大学に進むためにも、クラスメートより優れていなければならないと理解していました。しかし、たとえオールAで卒業しても、専攻を自由に選べるわけではありませんでした。「政治的に信頼できない分子」として人気のある学部には進めず、彼女は物理学を選びます。物理学は学校でも簡単に感じられたし、自然科学こそが最もイデオロギーから自由な分野ではないかと考えたからです。1+1=2、これは共産主義の下でも資本主義の下でも変わらない真理でした。

制限された科学

アンゲラはライプツィヒのカール・マルクス大学で熱心な学生生活を送りました。とはいえ、退屈なガリ勉タイプだったわけではありません。同級生たちとパーティを企画し、バーテンダーを務め、東ドイツのパスポートで行けるほとんどすべての国へ冒険旅行にも出かけました。物理学を学ぶことでイデオロギーを避けられると思っていたアンゲラでしたが、現実はそう甘くはありませんでした。

学業開始前には14日間の軍事教練が必修で、スポーツやマルクス・レーニン主義の講義を避けることもできません。アンゲラは東ドイツの不正や偏狭さ、脅しの数々を嫌悪していましたが、それでも学生時代、心のどこかで明るさと気楽さを失わずにいられました。それは、腹を割って話せる良き友人たちに出会えたこと、そして恋に落ちたことが大きかったのです。卒業の1年前、アンゲラとウルリッヒは結婚し、彼女は以後メルケル姓を名乗ります。愛ゆえの結婚でしたが、後に同じ街で働けるようにという計算もありました。

さもなければ、おそらく「必要とされる場所」へそれぞれ配置されていたでしょう。卒業後、夫妻はベルリンへ移りました。1978年のことです。イルメナウへの就職希望は叶いませんでしたが、それはおそらくシュタージ(国家保安省)がアンゲラを情報提供者として勧誘しようとしたためでした。彼女には、当局がとりわけ警戒する教会関係の人脈があったのです。アンゲラは、あえて無邪気なおしゃべりを装い「すぐにウルリッヒに話さなきゃ、信じてもらえないわ!」と言って、この窮地を切り抜けました。ベルリンでは中央物理化学研究所に勤めながら、博士論文を執筆しました。

とはいえ、学生生活の自由がなくなると、彼女の日常は次第に単調で灰色の、憂鬱なものに変わっていきました。毎日目の前にそびえるベルリンの壁が、気持ちを和らげてくれるわけもありません。体制から抜け出すことは不可能に思えました。しかし私生活では変化が起きていました。1981年、アンゲラは夫と別居し、空きアパートへ転がり込みます。当時、正式なアパートはほとんどなく、彼女は友人と共に空き家になっていた部屋に侵入し、鍵を交換してしまったのです。その後、近隣住民と同じ家賃を払い続け、運よく正式な賃借人として認められました。

仕事を通じて、若き物理学者は視野の広い面白い人々と知り合います。本の話から劇場の初日、どうやってドリルを手に入れるかまで、あらゆる話題がのぼりました。つまり、与えられた状況で最善を尽くしていたのです。そして1980年代半ば、アンゲラは二番目の夫となるヨアヒムと出会います。二人はテンプリン近郊にぼろぼろの家を購入しました。社会主義国への研究出張を除けば、計画経済の物不足の中でリフォームに励むことが、閉塞した状況から目をそらす手段となりました。そして1989年、ついにベルリンの壁が崩壊します。

激動の時代と政治への転身

東ドイツが解体し、ベルリンの壁が崩れたとき、アンゲラ・メルケルが何よりも感じたのは、安堵でした。ついに、シュタージも人民警察も、憎んでいた党も、もはや彼女に対して何の力も持たなくなったのです。すぐに、新たな感覚が付け加わりました。自由です。突然、自分がしたいことを何でも言い、行えるようになりました。

政治的に疑わしいよそ者という役割は過去のものとなり、望めば新生ドイツの未来を共に形作ることさえできる立場になったのです。そして彼女は、それを望みました。メルケルが最初にしたのは、政治的な居場所を探すことでした。どこに身を置くか決めかね、複数の政党や政治グループの集会に顔を出します。最終的に最も心地よさを感じたのは、「民主主義の出発(Demokratischer Aufbruch、DA)」という結成されたばかりの新党でした。独裁体制の崩壊は権力の空白だけでなく、膨大な混乱も生み出していました。

あらゆる組織、機関、役職が再編されなければなりません。そしてもちろん、統一の問題とそれに伴う新たな法整備がありました。この激動の時代に、メルケルはめざましい出世を遂げますが、それは偶然によるところが大きいものでした。たとえば、彼女がDAの報道官になったのは、党首のヴォルフガング・シュヌアが誤ってダブルブッキングをしてしまい、急遽代理で話せる人物が必要になったからです。メルケルはたまたま、適切な時に適切な場所に居合わせたのでした。新しい仕事と政治活動、そしてようやく状況を変えられるという実感が、メルケルを大きく開花させました。

しかも、彼女は仕事を立派にこなしました。1990年3月、東ドイツの人民議会(フォルクスカンマー)で最後の選挙が行われ、DAなどと連合を組んだCDU(キリスト教民主同盟)が第一党になりました。報道官として存在感を示したメルケルは、選挙後に再任されます。ほんの数週間後、DAはCDUに合流。メルケルは名実ともにこの国の主要政党の一員となったのです。彼女は統一の最前線に立つことになりました。

多くの論点がありました。ドイツマルクは導入されるのか、いつか。国有企業はどうなるのか。西ドイツの社会保障制度はいつから東ドイツに年金を支払い、その額はいくらになるのか。どの東ドイツの法律を統一または改正すべきか。そして1990年10月3日、ついにその時が訪れます。ドイツは再統一されました。メルケルは政治の仕事がどれほど楽しいかすでに実感しており、報道官を辞して連邦議会議員に立候補することを決断しました。

ベルリンには十分な数の政治家がいたため、彼女に割り当てられたのは、まだ候補者が決まっていなかった小さなグリンメン選挙区でした。そして地道な活動が始まります。地元CDU支部との会合、ポスター貼り、ビラ配り、有権者との対話。1990年12月2日、彼女は直接議席を獲得し、連邦議会議員になりました。当時メルケルは36歳。彼女はこの選挙区を、2021年に政治キャリアを終えるまで代表し続けることになります。

突然の大臣就任

ここから物事は急速に進みます。1990年の連邦議会選挙では、メルケルが直接議席を勝ち取っただけでなく、CDUも過半数を確保しました。その直後、当時の連邦特別問題大臣ギュンター・クラウゼがメルケルに近づき、こう言いました。「コールから聞いたんだが、君が大臣になるそうだな。女性関係の話らしい。

とにかく、まともな服を用意しておいたほうがいい。」もちろん、メルケルが女性であり、しかも東ドイツ出身であることが奏功した面は否めません。彼女はコール内閣に多様性をもたらす二つの条件を満たしていたのです。また、これといって失策をしていなかったことも、統一直後の混乱期にあっては政府入りするのに十分な理由でした。こうして、彼女はまもなく女性・青少年大臣に任命されました。折悪く数週間前に脚を骨折していたメルケルは、松葉杖をついていました。

長いスカートでつまずかないか心配だった彼女は、代わりにパンツスーツを買って着用します。当時の女性に求められていた伝統的な期待に逆らうその姿は、ある種大胆な反抗のようにも映りました。性別役割について振り返って、メルケルはこう述べています。「ありがたいことに、時代はすぐに変わりました。」長年にわたり、彼女は自分をフェミニストと呼ぶことに抵抗を感じていましたが、今では社会がジェンダー平等に近づいていることを喜ばしく思い、「ええ、私はフェミニストです――私なりのやり方で」と公言しています。女性・青少年省はいわゆる「ソフトな官庁」でした。

4年間の大臣在任中、メルケルの注力した最重要課題は中絶に関する法整備でした。それは保守政党である自党との間に多くの摩擦を生み、妥協を強いられることも頻繁にありました。彼女の結論はこうです。「進歩は存在します。たとえカタツムリの歩みのように遅くとも。」それから4年後の1994年10月、CDU/CSUとFDPは再び連邦議会で過半数を制します。ヘルムート・コールは首相に留まり、メルケルを環境・自然保護・原子炉安全相に任命しました。

当初、彼女は厳しい逆風にさらされます。前任のクラウス・テプファーが環境政策の先駆者であり、グリーンドット(リサイクルマーク)制度の導入や1992年のリオ地球サミットの準備を主導した人物だったからです。彼と比べると、メルケルは刺激がなく、党に忠実すぎると見られました。さらに、彼女の人気を高めない難題も控えていました。たとえば、再処理された放射性廃棄物を輸送し、反原発デモから護送する、物議を醸したキャスター輸送の監督責任者だったのです。メルケルは輸送が必要だと考えつつも、常に誰も傷つかないよう気を揉んでいました。デモ隊と直接対話も行いました。合意には至らないとわかっていても、せめて敬意だけは得たいと願ってのことでした。

全体として、メルケルは環境大臣の役割を刺激的で非常に充実したものと感じ、「現実にインパクトを与えられる」という感覚を得ていました。できれば任期の4年を終えた後も続けたかったのですが、それは叶いませんでした。1998年の選挙でCDU/CSUとFDPは過半数を失い、SPDのゲアハルト・シュレーダーが首相に就任します。統一以来初めて、メルケルとCDUは野党の立場になりました。しかし、それで仕事がゆっくりになったわけではなく、むしろその逆です。わずか1年後、ヘルムート・コールが献金スキャンダルで党首を辞任せざるを得なくなります。

メルケルは大胆な行動に出ました。同僚に相談することなく、『フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング』紙に寄稿し、政治的な師と決別して完全な透明性を要求したのです。この一手によって、彼女はCDUの待望久しい刷新の象徴となりました。党の古参議員やCSUの多くからは裏切り者と非難されましたが、党の基盤はメルケル支持に回ります。そして2000年4月、メルケルはCDU党首に選出されました。その後、2002年にエドムント・シュトイバーの首相候補としての挑戦が失敗した後、彼女は会派のリーダーにもなり、野党党首として次期首相候補の筆頭に躍り出ます。

頂点への到達

当時を知る年齢のドイツ人なら誰もが語るように、2005年9月18日の選挙の夜は、極めて僅差の結果でした。けれども最終的に、CDUがリードしているのは明らかでした。それでもゲアハルト・シュレーダーは選挙後のテレビインタビューで自らの勝利を宣言しました。メルケルは愕然としながらも平静を保ち、落ち着いてこう返しました。「明白な事実として、今夜あなたは勝っていません。

」明確な勝者としてのこの最初の一言が、首相としてのメルケルのリーダーシップスタイルを決定づけたのです。すなわち、事実に基づき、揺るがず、そして断固たる態度です。首相に選出された瞬間を「めまぐるしい」と表現したメルケルに、すぐさま本格的な仕事が始まりました。内閣を組閣し、世界中への表敬訪問に乗り出さなければなりません。首相としての生活がどれほど過酷なものかを、彼女は長く待たずに思い知ります。ドイツを統治するということは、数えきれないほどの競合する利益の間をかじ取りし、共通の方向へ導くことでした。それに加えて、終わりのないアポイントメントの数々――その多くは定例行事です。

彼女が会わねばならない個人や組織のリストは70項目を超え、ドイツ家族団体連合会からダボスの世界経済フォーラムまで多岐にわたりました。単に短い握手を交わすだけでは済みません。メルケルはすべての会合に、人、事実、利害、機微に至るまで十分な情報を把握した上で臨まねばなりませんでした。常に調整し、代表し、融和を図り続ける日々。その日の議題も当然あり、ブリーフィングや朝のアップデートもあります。感情的な失言や寝坊などは論外です。下す決断の一つひとつが人々の生活に影響を及ぼす以上、プレッシャーは絶え間なく続きました。

これだけの責任を負い、専用の政府専用機で世界を飛び回る人間なら、いつしか現実感覚を失ってしまいそうなものですが、アンゲラ・メルケルにはそれがなかったようです。首相官邸での日常を振り返りながら、彼女は官邸の厨房が出す見事なミックスサラダを懐かしく思い出し、こう言います。「家庭であの野菜を刻むのに、私はどれほどの時間をかけていたでしょう?」静けさを取り戻せるひとときもありました。特に、ウッカーマルクの自宅では時折、夫と二人で過ごす時間を大切にしていました。この地に足の着いた感覚は極めて重要でした。というのも、やがてメルケルは困難な時代を通じてドイツを率いなければならなかったからです。

揺らぐ世界経済

2007年の夏、ドイツの銀行がアメリカ発の信用危機に初めて巻き込まれました。問題は、たった一行でも破綻すれば、連鎖的な倒産を引き起こしかねないことでした。多くの金融機関は単に「大きすぎて潰せない」存在だったのです。政府、銀行、市民の誰もが、安定した金融システムという共通の利害を持っていました。

しかし同時に、明らかな不公平もありました。経営を誤った銀行を、納税者の金で救済するという事態です。2007年9月、ジョージ・ブッシュ政権は投資銀行リーマン・ブラザーズを救済せず、一つの見せしめにしました。同行は倒産手続きに入り、やがて金融機関だけでなく通貨にまで及ぶ破綻の波が押し寄せます。この危機をメルケルにとってことさら困難にしたのは、自分が何をしようと、すべての人にとって状況が厳しくなるのが避けられないとわかっていたことでした。彼女にできるのは、被害を最小化しようと努めるだけでした。しばしば事態は緊迫し、アジア市場が開く前に深夜の交渉で資金繰りをつけねばならないこともありました。

金融危機はブラックホールのように、何十億もの資金を呑み込んでいきました。メルケルは怒りと重圧を感じながらも、自由に決断することはできず、つねに「より大きな悪」を避ける道を選ぶしかなかったのです。危機はユーロだけでなく、EUそのものの結束をも脅かしました。メルケルにとって欧州連合は、安全で自由なヨーロッパの未来の基盤です。彼女は、その崩壊を賭けの対象にするわけにはいかず、またそうする気もありませんでした。そこで、ギリシャ支援を含むさらなる救済策を次々と繰り出しましたが、それは同時にドイツ国内の右派ポピュリズムを勢いづかせることにもなりました。この状況を説明して、メルケルは「ほかに選択肢はなかった」という物議を醸した言葉を残しています。

もちろん、それは文字通りには真実ではありません。銀行とユーロを救済する以外の選択肢は確かに存在しました。ただし、それを選べば市民は預金を失い、それとともに金融システムへの信頼も失ったでしょう。EUはおそらく崩壊し、ヨーロッパは混乱に陥っていたかもしれません。メルケルが述べたように、「ユーロが破綻すれば、ヨーロッパが破綻する。」そして彼女にとって、それは決して許容できる選択肢ではありませんでした。

「私たちにはできる」

アンゲラ・メルケルの言葉で、もう一つ歴史に刻まれたものがあります。「私たちにはできる(Wir schaffen das)。」この言葉を文脈の中に置いてみましょう。2015年9月、ヨーロッパへ逃れてくる難民の状況は、「アラブの春」の影響も受けて極限に達していました。安全とより良い生活を求めて、ますます多くの人々がヨーロッパを目指していました。

地中海での溺死者数は増え続け、難民は東欧経由のルートを選ぶようにもなっていました。そんな中、ハンガリーのヴィクトル・オルバン首相は多くの難民をバスでオーストリア国境まで運ばせます。難民たちは必死で、かつ決意に溢れていました。もしも国境で追い返すようなことをすれば、暴力が噴出した可能性は高い。それを未然に防ぐため、当時のオーストリア首相ヴェルナー・ファイマンがメルケルに電話をし、こう提案しました。「我々が半分を引き受けるから、そちらでも半分を。」メルケルの答えは?

「私たちにはできます。」この言葉こそ、のちに誰よりもアンゲラ・メルケルに投げつけられることになる一言ですが、同時にリベラル派が最も歓呼した言葉でもあります。メルケル自身は、この騒ぎが今ひとつ理解できませんでした。それは彼女にとって、ごく日常的な、飾り気のない一言であり、神への信頼、ないしは楽観主義ともいえる彼女の基本的な態度を反映したにすぎなかったのです。ドイツとドイツ人は、この状況に対処できる。そう彼女は信じていました。それに、自分たちの政党名には「キリスト教」を意味する「C」が入っているではありませんか。

「私たちにはできる」の何が悪いのか?2015年夏にドイツが示した温かい歓迎ぶりは、メルケルを誇らしく、感謝の気持ちで満たしました。ミュンヘンの中央駅で拍手と花と飲み物で難民を迎えた人々、仮設の宿泊所で尽くした無数のボランティアたちは、彼女の信念を裏付けるように思えたのです。私たちはこれをやっているのだ、と。もちろん、簡単なことではありませんでした。だからこそ「難民危機」と呼ばれるのです。メルケルにとって、あの夏は広報上の失敗もいくつか招きました。ロストックで、14歳のリーム・サーウィルが「家族がレバノンに強制送還されるのが怖い」と涙ながらに訴えたイベントがありました。

泣き出したリームに、メルケルは近づいて背中をポンと叩き、「よく話してくれたわね(Du hast das ganz toll gemacht)」と言いました。決して最も気の利いた対応ではありませんでしたが、彼女は少女に在留を約束するわけにはいきませんでした。それは自分の決断ではなく、法律と当局が決めることだったからです。こんな瞬間に、首相という立場の重さがずしりとのしかかりました。

他の多くのドイツ人と同じように、メルケルもまたこの状況で最善を尽くし、微笑みながら新たな隣人を迎えようとしました。シリア難民と一緒に自撮り写真に収まったのもその一例です。それについても彼女は激しく非難されましたが、こう反論しています。「もし危機の時に友好的な顔を見せたことを謝らなければならないとしたら、それはもはや私の国ではない。」さらに状況を悪化させたのは、排外主義政党「ドイツのための選択肢(AfD)」が勢いづいたことでした。しかし、それは常につきまとったことです。メルケルが何を決断し、何をしようと、常にネガティブな結果がついてまわりました。

世界のリーダーたちの中で

16年にわたる首相在任中、アンゲラ・メルケルは政治の世界で名だたる人物のほとんどと顔を合わせました。友情を育んだ相手もいれば、困難を極めた相手もいます。世界で最も権力を持つ人々とは、実際どんな人たちだったのでしょうか?まずはアメリカから始めましょう。

メルケルが2005年に首相になったとき、ホワイトハウスにいたのはジョージ・W・ブッシュでした。最初の公式訪問の瞬間から、ブッシュが誠実で、心から関心を持ってくれていることがメルケルには伝わりました。その好印象は、1年後に彼女が自分の選挙区へブッシュを招いたことでさらに強くなります。二人のリーダーは気が合ったばかりでなく、ブッシュは実務的で気さくな人物であり、懇親会で野生の猪の丸焼きを串で回す機会を逃しませんでした。2007年にはブッシュがメルケル夫妻をテキサスの牧場に招き、家族ぐるみで週末を過ごすほどです。

これによって、政治サミットでの交渉もはるかにしやすくなり、共同の成果をあげることができました。後任のバラク・オバマについても、メルケルは好意的な記憶を持っています。思慮深く、開かれた人物で、良い協力関係を築けました。しかし、在任中に接した三人目のアメリカ大統領、ドナルド・トランプについて、同じことは言えません。メルケルが受けた印象では、トランプは感情に突き動かされ、目前の問題にはほとんど関心がないようでした。彼にとっては、問題を共に解決することより、個人的勝利を手にすることの方が重要に映ったのです。

ウラジーミル・プーチンとの協力もまた扱いにくいものでした。トランプと同じく、プーチンは常に権力ゲームに興じる人物でした。時にはメルケルを待たせ、時には首相が犬を怖がることを知りながら、あえて会談に犬を連れてくることさえありました。しかし、そうした振る舞いで彼女を挑発できると思ったのなら、それは見当違いでした。メルケルは気に留めることもなく苛立ちを見せることもなく、淡々と職務を進めただけです。もう一人、メルケルにとって手強い交渉相手だったのが、2013年から中華人民共和国の国家主席を務める習近平です。しかしその難しさは、人柄よりもイデオロギーにありました。

メルケルは民主主義や人権といった問題を無視できず、訪中のたびに定期的に反体制派の人物と会談を持ちました。そうではあっても、習近平との間では現実政治(レアルポリティーク)を実践することは可能でした。どちらもイデオロギーの違いを越えて、自国にとって最善の道、特に経済協力を追求したのです。こうして見てくると、首脳級の会合でさえ多大な忍耐と外交手腕、そして機微を必要とし、メルケルにとって必ずしも愉快な時間ばかりではなかったことがわかります。もっとも、2020年までには、いずれにせよ対面での会談はすべて宙に浮くことになりましたが。

未知の領域へ:新型コロナウイルスのパンデミック

2020年、アンゲラ・メルケルは首相として最後の大きな試練に直面します。数年前、彼女がデジタルの世界を「未知の領域(Neuland)」と表現したとき、メディアはこぞって嘲笑しました。しかし今度は、本当の意味で誰にとっても未知の領域だったのです。世界中の政府が、まったく経験のない場所へ足を踏み入れていました。

世界的なパンデミックにどう対処すべきか、経験者は誰もいませんでした。ウイルスは驚異的な速さで広がり、当初はどれほど危険なのか、正確にどう感染するのかさえわかりませんでした。だからメルケルは、首相としての最後の2年間を再び危機管理モードで過ごすことになったのです。科学のバックグラウンドは状況を理解する助けにはなりました。たとえば「指数関数的な増加」が何を意味するかわかっていましたが、多くの政治家や市民にはその理解がなく、それが仕事を一層難しくしました。

メルケルにとって、この時期は精神的にも消耗する日々でした。厳しい措置を講じることで、国民に大きな負担を強いていることは自覚していました。介護施設で面会を禁じられた高齢者や、家に孤立した子どもたちの状況が、彼女の胸に重くのしかかっていました。しかし同時に、それはまさに生死に関わる問題でした。既往症のある患者や高齢者を守らないことは、彼女の個人的な信条に反するばかりか、ドイツ憲法第一条にも反する行いだったのです。自分のしていることが完全に正しいと確信していたにもかかわらず、メルケルは決して措置を軽く受け止めてはいませんでした。それゆえに彼女は、2020年3月18日、国民に向けて直接語りかける演説を行い、移動や旅行の自由は最も崇高な権利の一つであり、絶対に必要な場合に限って一時的に制限しているのだと強調しました。

ドイツでは医療政策は各州の管轄ですが、パンデミックは連邦政府にも膨大な作業を要求しました。保健省は防護具の確保に追われました。さらに、現状の危険度やウイルスに関する最新の知見と、各種措置を絶えず天秤にかけなければなりませんでした。マスク着用義務は?いつ、どこで?学校閉鎖はイエスかノーか?

そして、どの感染率なら妥当か?すべての措置は「適切」「必要」「均衡」でなければなりませんでしたが、何が最善かについてはしばしば深い意見の対立がありました。メルケルは、多くの政治家が「希望的観測」の原則で動いていることに苛立ちを感じていました。もちろん、自分の家族や友人のことも心配でしたし、防御策は彼女自身の生活も苦しくしました。国際外交にしても、ズーム越しでは対面よりはるかに難しいのです。さらに、最も弱い立場の人々を守るための厳しい措置は、国民のかなりの部分に不人気で――それも無理のないことでした。しかし、だからといって苛立ちが和らぐわけではありません。

状況は刻々と変化しました。とはいえ幸いにも、第二波を過ぎたあたりから徐々に状況は和らぎ始めます。迅速検査とワクチンという新たな手段がパンデミックとの闘いに加わり、やがて最悪の時期は終わりを告げました。

別れ

2017年の連邦議会選挙前から、メルケルはもう一度立候補すべきかどうか自問していました。そして2021年までには、はっきりと確信します。16年で十分だと。立候補しないと決めた途端、メルケルは自分がいかに疲れ切っていたか、終わりをほとんど「待ち望んで」いるかのように感じました。体もまた、どれだけ無理を重ねてきたかを明確に訴えていました。立ったまま行われた三度の公式行事で、彼女は制御できない震えに見舞われ、座らざるを得ませんでした。

その経験から、以降のいくつかの日程では慣例を破って座ったまま臨みました。2021年12月2日、アンゲラ・メルケルは盛大な送別式典とともに正式に退任しました。式典を開くべきかどうか、彼女は迷っていました。新型コロナのパンデミックはまだ続いていたからです。しかし政府報道官のシュテフェン・ザイベルトが、この伝統は「個人を超えた尊厳」を退任に与えるのだと説得しました。式典は状況に合わせて調整され、レセプションはなく、招待客も400人から200人に絞られました。告別のスピーチで、メルケルは皆に「心からの喜び」を願いました。

ドイツ連邦軍の音楽隊は、彼女のリクエストでヒルデガルト・クネフとニナ・ハーゲンの曲を演奏しました。式典の後、彼女は夫と数人の友人と共に首相官邸へ戻り、夜を締めくくりました。メルケルが首相として過ごした最初の日と同じように、ソーセージ、ミートボール、ポテトサラダが並びました。

最終的なまとめ

このアンゲラ・メルケル著『フライハイト』の要約では、彼女のキャリアの初期に、しばしば東ドイツ出身という過去を理由に「あなたには理解できない、独裁の中で育ったのだから」と批判された様子が描かれました。後には、彼女は「ベルリンの壁崩壊前と後で二つの人生を生きた」と言われることもしばしばでした。しかし、メルケル自身は違う見方をしています。彼女が生きたのはただ一つの人生であり、その第二部は第一部なくして理解できないものだ、と。首相を16年務めた今、メルケルはその役職に伴う多くの制約から解放されています。

自伝を執筆する中で、彼女は多くの時間を内省に費やしました――とりわけ、自由とは実際に何を意味するのかについて。彼女にとって自由とは、単に「何かから自由であること」だけではありません。それは「何かに対する責任」も伴うものです。市民として私たちは、周囲の人々、自分たちのコミュニティ、そして民主主義そのものに対して責任を負う自由を享受しています。ただし、見失ってはならないことが一つあります。自由は、それが万人に適用されて初めて存在しうるのだということです。

以上、『フライハイト』の要約でした。お楽しみいただけたでしょうか。もしよろしければ、評価をお寄せいただけますと幸いです。いつもフィードバックをありがとうございます。それではまた。

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