冷戦を終わらせた男、知られざるKGB二重スパイの数奇な運命

『スパイと裏切り者』(2018年)は、冷戦終結に貢献したソ連の二重スパイ、オレグ・ゴルジエフスキーの実話に迫る。本要約では、ゴルジエフスキーのKGBでの昇進、英国秘密情報部MI6のための諜報活動、そして西側への大胆な脱出劇をたどる。

この要約で得られるもの:冷戦に人間の顔を与え、最高の冒険物語を味わう

東西冷戦は、いつ核戦争に発展してもおかしくない緊迫の半世紀だった。両陣営は巨大なスパイ網と監視技術を張り巡らせ、相手の動向を探り続けた。もちろん、スパイは常に危険と隣り合わせの仕事である。

スパイは金のため、あるいは信念のために寝返る。KGBエージェント、オレグ・ゴルジエフスキーの人生はその典型だった。彼は西側に寝返り、二重スパイとなり、やがて世界を変え、冷戦終結にも貢献したと言われる。本要約では、彼がどのように情報将校となり、西側に魅了されていったかを追うとともに、以下のような驚きの事実を紹介する。

  • 国境で探知犬を欺くユニークな方法
  • マーガレット・サッチャーがソ連首脳とより上手く対話するのに役立った情報
  • デンマーク情報部の意外な実力

KGB入りが約束されたエリートだったが、早くから共産主義に幻滅

ソ連の国家機関といえば、今でも恐怖の代名詞はKGBだ。国家保安委員会は、冷酷非情な効率性で国民を監視し続けた。ゴルジエフスキーの父アントンはKGBの終身メンバーで、スターリンの大粛清では多数の「国家の敵」を摘発したとみられる。父はその過去を語らなかったが、週末に制服を着るほどKGBを誇りに思っていた。1938年10月10日生まれのゴルジエフスキーも、父のコネでKGB入りが約束されたようなものだった。

だが彼の良心は安らかではなかった。早くから共産主義に疑問を抱くきっかけとなったのは、ソ連のイデオロギーと距離を置く穏やかな母と、秘密裏に信仰を守る祖母の存在だった。17歳で外交官・スパイ養成の名門モスクワ国際関係大学に入学した頃には、時代の空気が変わり始めていた。

スターリン死後のフルシチョフによる自由化で、外国人訪問や禁書が解禁され、ゴルジエフスキーは大学図書館の外国紙で西側の情報に触れる。夜には禁止されていたBBCワールドサービスやボイス・オブ・アメリカをひそかに聴くようになる。同じ頃、共産主義に懐疑的なスタニスラフ・カプランと親友になり、よくジョギングを共にした。まだ完全に思想を捨ててはいなかったが、この友情が二人の人生を決定的に変えていく。

初めての国外体験で、幻滅は確信に変わる

1950年代半ば、2億8千万人のソ連国民は巨大な監獄に住んでいるも同然だった。政府は西側資本主義を存亡の脅威とみなし、国民をその影響から遮断するため、100万人以上のKGBが国民を監視し、洗脳と陰謀論が横行していた。

ゴルジエフスキーはそれを目の当たりにし、共産主義への疑念が再燃する。1961年に大学を卒業しKGBの面接を受けた後、正式配属前の6か月間東ベルリンに派遣された彼は、ベルリンの壁が一夜にして建設される光景を目の当たりにした。22歳の彼にとって、その壁は「社会主義の楽園」に東ドイツ国民を閉じ込める牢獄の壁以外の何物でもなかった。壁の周囲では溝が掘られ、逃亡を試みて命を落とす者があとを絶たなかった。それでも、幼い頃から染みついた服従と権威への敬意から、1962年7月にKGBへの出頭命令が下ると素直にモスクワへ戻った。だが彼には、ソ連体制から少し距離を置く秘策があった。訓練終了後、国外勤務を得るため、やはり体制に疑問を持つエレナと早々に結婚したのだ。

1966年1月、コペンハーゲンのソ連大使館勤務が決まり、新婚夫婦はデンマークへ。任務は国内のKGB潜入スパイ網の管理だった。ゴルジエフスキーはソ連では禁じられた西洋文学を読み漁り、クラシック音楽に心酔していく。西側の文化的価値観に共感するほど、ソ連への違和感は増し、行動に移すのは時間の問題だった。

デンマーク情報部にシグナルを送るも、まったく気づかれず

デンマークで2年が過ぎ、ゴルジエフスキーの疎外感は憎悪に変わっていた。転機は1968年、ソ連がチェコスロバキアの「プラハの春」を戦車で粉砕した事件だった。デンマーク市民が抗議デモで大使館を取り囲む中、ゴルジエフスキーは深い恥辱に駆られ、館内から妻に電話でソ連の蛮行を激しく罵った。だがこれは単なる激情ではなかった。彼は大使館の電話回線がデンマーク情報部(PET)に盗聴されている事実を承知の上で、寝返りの準備があることを暗に伝えたのだ。ところがPETはその手がかりをまったく察知できなかった。

もっとも、PETはすでにゴルジエフスキーを要注意人物とみなし、「ゴームソンおじさん」という暗号名をつけていた。彼が西側の自由を謳歌し、好奇心から同性愛雑誌を購入して妻に見せたことまで把握し、自宅も盗聴していた。PETは彼が同性愛者だと誤解し、外交パーティーで若いデンマーク人男性が二人きりのバーへ誘うハニートラップを仕掛けたが、ゴルジエフスキーは誘いを断った。雑誌は単なる興味の対象で、自分が口説かれているとも気づかなかったのだ。PETの監視にも彼は無自覚だったが、緻密なKGBは彼への尾行が大使館内で突出していることを見逃さなかった。理由は不明でも危険と判断したKGBは彼をモスクワへ呼び戻す。デンマーク情報部とゴルジエフスキーはすれ違ったまま、最終的に彼を獲得したのはイギリスだった。

1970年、MI6が接触――「サンビーム」作戦が始動

国外の勢力と接触できず不満を抱えて1970年にモスクワへ戻ったゴルジエフスキーを、実は英国秘密情報部MI6はすでにマークしていた。きっかけは、大学時代の親友カプランがフランスで亡命した後に書いた報告書だった。そこにはゴルジエフスキーが「はっきりとした政治的幻滅の兆候」を見せていたと記されており、MI6は彼を要注意人物に指定し、「サンビーム」の暗号名を与えた。その後、彼がKGB内で急速に昇進し再びデンマーク勤務となったことで、MI6はついに接近の機会を得る。

1973年11月、カプラン本人が突然彼の家を訪ね、ランチを共にしながら亡命やチェコスロバキアでの体験を語った。ゴルジエフスキーは深く共感し、KGBに報告する気配も見せなかった。そこでデンマークMI6支局長リチャード・ブロムヘッドは、彼が毎朝通うバドミントンコートで接触し、3日後の個別ランチを取り付ける。ゴルジエフスキーは相手がMI6だと確信した。最初の面会はうまくいったが、ブロムヘッドは8か月も沈黙した後、再びバドミントンコートに現れてSASホテルのバーでの2度目の会合を提案する。今度はゴルジエフスキーも心を開き、政治情報収集の担当者を聞かれると、驚くべきことに「私です」と自ら名乗り出た。さらに、前回の接触もKGBに報告していないと明かし、二人は安全な連絡場所を確保することを約束した。このホテルでの会合が、ゴルジエフスキーの寝返りを事実上決定づけ、「サンビーム」は輝き始めたのだった。

二重スパイ生活と並行して始まった、新たな恋

大使館での二重生活と並行して、私生活にも変化が訪れた。ゴルジエフスキーはコペンハーゲンの反対側にあるアパートで、月2回、各2時間にわたりMI6の担当官と落ち合うようになる。彼の新たなKGB任務は「西側の制度を蝕む」ための情報収集だったが、それはまさにMI6が知りたいことの核心だった。ソ連の破壊工作の手法を全く把握していなかった英国にとって、情報将校としての訓練も積んだ彼はこれ以上ない最高の二重スパイだった。

ほどなく、彼はKGBが世界にスパイを送り込む手口など、垂涎の情報を提供し始め、大使館からマイクロフィルムのリールを持ち出してMI6に複写させるまでになる。MI6はまさに金脈を掘り当てたのだ。彼のKGB内での地位の高さに感謝したMI6長官直筆の礼状まで届けられる。しかし西側文化に傾倒しつつも、ゴルジエフスキーは依然として伝統的な価値観を持っていた。妻エレナが料理や出産を拒んだことで結婚生活は冷え込んだが、共産主義イデオロギーでは離婚は好まれず、KGBでの出世に響く恐れがあった。そんな折、ソ連大使夫人の紹介でKGB少将の娘でもあるレイラ・アリエワと知り合う。28歳の彼女は世界保健機関で働くためデンマークに来ており、二人はすぐに恋に落ちた。しかし二重スパイの秘密を彼女に打ち明けるわけにはいかず、やがてこの秘密が二人の関係を蝕んでいく。1978年春、ゴルジエフスキーのデンマーク勤務は終わりを迎えようとしていた。

MI6が脱出計画を準備するなか、自らロンドンへの道を切り拓く

モスクワでの接触が危険と判断したMI6は、潜入工作員の緊急脱出計画の専門家ヴェロニカ・プライスが立案した「ピムリコ計画」を用意した。それは、モスクワのパン屋の前で灰色の帽子とズボンを身につけ、英国のセーフウェイの買い物袋を持ってたたずむという合図を送り、ロンドンの高級百貨店ハロッズの緑の袋とキットカットやマーズバーを手にしたMI6隊員とすれ違って確認する。3日後にレニングラード行き寝台列車に乗り、フィンランド国境の合流地点で英外交車両のトランクに隠れて脱出するというものだったが、ゴルジエフスキー自身も含め誰もがリスクが高すぎると感じていた。幸い、この計画は不要となる。

1979年にエレナと離婚したことで案の定キャリアは停滞し、KGB人事課に左遷されてスパイ活動史の編纂に追われる。これでは最新のKGB作戦を知る由もなかったが、同年レイラと再婚し、キャリアの停滞を逆手にとってKGBの英語研修コースに登録。1981年までに英国駐在資格を取得し、ロンドンのソ連大使館のKGBポストが空くと、賄賂を駆使してその座を射止めた。出国許可を待つ間、KGB本部で英国における作戦ファイルを徹底的に洗い直す。これこそ、MI6が喉から手が出るほど欲しがっていた情報だった。1982年6月28日、ゴルジエフスキーはレイラと二人の娘を連れてロンドン行きの飛行機に乗り込んだ。スパイ活動はロマンチックに語られがちだが、実際に成果を出すスパイは稀である。しかしゴルジエフスキーは違った。

ソ連首脳の心理を見抜き、冷戦の行方を決定づけた情報

彼がMI6にもたらしたのは単なるスパイの氏名ではなく、ソ連首脳やKGB幹部を動かす心理の全体像だった。特に決定的だったのは、KGB内部で「西側が先制核攻撃を仕掛けてくる」という恐怖が蔓延しているという情報だった。1981年から開始された「リャン作戦」は、核攻撃の兆候を探る冷戦最大のソ連情報作戦である。当時、レーガン大統領がソ連を「悪の帝国」と罵倒するなどアメリカの言辞は過激さを増しており、西側としてはソ連の不安の度合いを正確に把握する必要があった。恐怖が頂点に達すれば、防御的な先制攻撃に出る可能性もあったからだ。MI6は情報源を偽装しつつ、この心理分析をCIAに伝達。その結果、アメリカはソ連の核攻撃を誘発しないよう、レトリックを大幅に和らげることになる。

さらにゴルジエフスキーは、東西のコミュニケーションのあり方そのものを変え、冷戦終結に貢献した。1983年の英国総選挙でサッチャー保守党が圧勝した際、ソ連は労働党政権を望んでいたため、ゴルジエフスキーはソ連首脳への接し方をサッチャーに助言した。具体的には、ソ連首脳は侮辱に敏感ですぐに防御的になるため、公の場では友好的に振る舞うべきだと進言したのである。同時にMI6は、ゴルジエフスキーが有能な工作員に見えるよう、彼のモスクワへの報告用に英国政治家の性格分析や会談テーマを提供した。こうして彼は、東西の相互認識と意思疎通の回路そのものを再構築し、その歴史的影響は決して忘れられてはならない。

CIA内部の二重スパイが正体を露見させ、モスクワへ送還

二重スパイは常にハイリスクな賭けだ。時には見切りをつけて亡命すべきだが、MI6はゴルジエフスキーに情報を与えてKGB内での昇進を後押しし、障害を取り除き続けた。例えば、ロンドン大使館での上司アルカジ・グークを英国から追放するなど、表向きは優秀さを印象づける作戦だった。そうして彼が外交官最高位のレジデントに昇進した直後の1985年5月、突然モスクワへの即時帰還命令が下る。スパイ行為が露見した可能性は高く、極めて不審な召還だったが、彼はあえて西側亡命ではなくモスクワ行きの危険を選んだ。

モスクワ到着から数週間後、KGB施設に連行され、薬を盛られた上で英国のスパイ行為を自白するよう迫られるが、彼は頑として認めなかった。結局釈放・降格されたものの、ソ連からの出国は許されず、KGBは彼を監視下に置いて尻尾を掴もうとした。後に判明したところによると、CIA内部の裏切り者が事の発端だった。MI6の情報源の正体を突き止めようとしたCIAが、オルドリッチ・エイムズという職員に調査を命じたところ、彼こそが金のためにソ連に情報を流していた二重スパイだったのだ。エイムズはイデオロギーとは無縁で、ソ連から推定460万ドルを受け取っていた。ゴルジエフスキーは、いつかKGBが自分を消しに来るのではないかという不安に苛まれながら、生きているだけでも幸運と思うほかなく、レイラには無実を訴え続けた。

家族を置き去りにして決行された、命がけの脱出劇

MI6とゴルジエフスキーを悩ませた唯一の問題は、精巧なピムリコ計画が本当に機能するかどうかだった。鉄のカーテンの向こうに消えた彼の所在すら掴めないまま、KGBの尋問から数週間後、ゴルジエフスキーは家族を残してでも脱出を試みる決意をする。1985年7月16日、突然灰色の帽子をかぶりセーフウェイの袋を提げた男がパン屋の前に現れた。モスクワのMI6要員は直ちに動く。KGBにすべてを盗聴されていると承知の上で、MI6スパイでもある英外交官の妻が急な腰痛を装い、フィンランドでの治療が必要だと嘘をつき、外交車両での越境を計画する。もちろん盗聴しているKGBには、それがゴルジエフスキーをトランクに隠して家族ごと国外に逃がすための偽装工作だとは悟らせない。その間ゴルジエフスキーは、KGBのマイクが届かないバルコニーでレイラに本心を打ち明け、子供たちと一緒に英国へ戻らないかと誘ったが、彼女は拒否。家族を連れていくことはリスクが大きすぎると悲しい決断を下す。

3日後、彼はKGBでの訓練を逆手に尾行を撒いてフィンランド国境の合流地点へ向かい、MI6は何食わぬ家族連れを装って彼を車に収容した。だがトランクの中の彼を国境の探知犬が嗅ぎつける危険があった。打開策として、隊員が車窓から臭いのきつい英国製ポテトチップスを撒いて犬の注意を逸らし、さらには赤ん坊のおむつをトランクの上で取り替えて人間の臭いを上書きする機転が功を奏した。国境を越え、車内にフィンランディアのメインテーマが流れた瞬間、生還が確信された。前代未聞の大胆不敵な作戦であり、特に赤ん坊の貢献は大きかったが、今日に至るまでロシアでは「MI6が本当に赤ん坊を隠れ蓑に使った」とは信じられていない。

MI6に守られてロンドン郊外でひっそりと暮らす日々

ゴルジエフスキーの物語は魅力的だが、すべてがハッピーエンドではない。ロンドンでは安全が確保されたものの、家族と離ればなれになった彼はすぐに鬱状態に陥る。レイラと子供たちもまた、KGBの恥辱をそそぐため人質同然にソ連に留め置かれた。MI6は「ヘトマン作戦」で家族の再会を長年試み、サッチャーもゴルバチョフとの会談のたびに引き渡しを迫った。しかしレイラは、自分は潔白なKGB将校に過ぎないという夫の嘘に激怒しており、真実に気づいていた。ようやくKGB最後の議長バカーチンが改革の象徴として1991年9月6日に家族のロンドン行きを許可したのは、ソ連崩壊のわずか3か月前だった。だがわだかまりは深く、二人は1993年に離婚する。

亡命生活は孤独と隣り合わせだったが、ゴルジエフスキーはその功績を称えられ、サッチャーやレーガンと面会し、世界中でKGBの内幕を講演して回った。2007年にはエリザベス女王から聖マイケル・聖ジョージ勲章を授与されている。また、ソ連スパイ史に関する大部の著作を共著で執筆するなど精力的に活動し、今もMI6の保護下でロンドン郊外の静かな灰色の街に暮らしている。彼が世界を変えた男だということを、おそらくすぐ隣の住人さえ知らないだろう。

本要約の要点

KGB将校オレグ・ゴルジエフスキーにとって、幼少期に刷り込まれた共産主義の理想は、現実の共産主義の実践と西洋イデオロギーに触れることで脆くも崩れ去った。彼はMI6の二重スパイとなり、命を懸けた長年の任務を通じて、西側諸国が活用できるソ連指導部の心理分析を提供した。最終的に彼は冷戦の終結に貢献し、ソ連からの大胆不敵な脱出を成功させ、二度と祖国の地を踏むことはなかった。

次に読みたいのは、同じ著者ベン・マッキンタイアによる『A Spy Among Friends(友のなかのスパイ)』。第二次世界大戦から冷戦期にかけて英国諜報部のエリートとして活躍しながら、実はKGBのスパイだったキム・フィルビーの衝撃的な実話を描いた伝記です。ケンブリッジ・スパイ・リングの一員であるフィルビーの数奇な運命に興味があれば、ぜひ手に取ってみてください。

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